変化に富んだ観るものを楽しませる獅子舞、東京都渋谷区代々木囃子保存会

2024年5月26日(日)、東京都渋谷区代々木囃子保存会を取材!今度、7月に渋谷区で開催するイベントに出演いただくこともあり、演舞の流れについて知っておくため、今回取材することにした。

金魚祭りとお囃子・獅子舞の位置付け

大正時代以前、金魚を買うお宅が地域に多かったなどの由来があり、代々木八幡宮の5月のお祭りを金魚祭りと呼ぶそうだ。このお祭りが始まるのが10時で、それよりも前に来て囃し立てこれから祭りが行われますよという合図のような感じで、お囃子と獅子舞が行われているようにも思われる。

演舞の様子

8時40分から開始されたお囃子。その後の獅子舞は幕の裏から出てくると、背筋をぐんと伸ばしたり引っ込めたり、左右に触れたりと動きがとても変化に富んでいて見応えがあると思った。そして、ボールを口に咥える仕草やおかめとひょっとこが大勢現れて眠っている獅子にちょっかいを出して、起こしてしまうと怒って、たまらず逃げていくようなシーンもあって、ユーモアにも富んでいた。やはり獅子舞が登場すると場の空気感が変わる。ポジティブなエネルギーをもたらしてくれる存在に思われた。約1時間の演奏・演舞となった。

代々木囃子の歴史

代々木囃子保存会。その歴史は江戸時代に始まったという。葛西囃子と神田囃子が栄えた事で、江戸の太神楽の基盤ができたことはよく知られているが、そこから伝えられた目黒囃子を源流として、この代々木囃子が生まれたようだ。代々木囃子保存会のホームページによれば、この江戸時代のお囃子文化の源流は田楽にあり、田楽が鎌倉時代武家流にアレンジされて勇壮な5人で行うお囃子という形態の基盤ができたと考えられるという。長い歴史を経て相当な変化が加わったと思われるが、今でもその名残を伝えてくれる歴史あるお囃子だ。

お囃子を担う人々

男女年齢に関わらず他世代がここに所属し、活気があるように思えた。若い人に話を聞いてみたら、もともと祭りに関わりたくてホームページを発見して問い合わせて、練習に通うようになったという。全く知り合いがいなくても問い合わせをして、団体に所属する流れが、できているのがすごい。

出演も多数

活躍の場も多い印象だ。お正月は代々木八幡宮での奉納演舞だけでなく、門付けも行うという。それから区内のイベントなどに多数呼ばれて出向くという。渋谷区の無形民俗文化財として、地域の人々に愛されている様子が伺える。



獅子頭制作13日目

本日、茨城県石岡市での獅子頭づくり。本日はテレビ取材込みだった。

作業内容としては家で課題として木片を獅子頭の側面に貼り付けていたので、それを彫るというものである。この彫る部分を毛玉という。
毛玉の彫り方はまずぐるりと周りの木を削り大まかな形を整えたら、細いキリで細かく斜めに削っていく。中心部が最も高くなるように、一方でその周辺部が少しずつ低くなっていくように作る。全体として角張った木材が丸く獅子頭全体に馴染むように作らねばならない。部分と全体と、両方の視点が必要なのだ。
毛玉の巻き方にとりわけ法則はなく、獅子頭のサイズが大きいほど、巻く数が多くなると言う程度らしい。僕が作っているのは子ども獅子くらいのサイズなので、巻く数は2回で済む。もっと大きいサイズになるとすごい巻くことになるんだろう。

今回、取材では他に、巨大獅子頭の展望台や獅子頭が飾ってある観光案内所、すずのやなどのお店を回った。すずのやで非常に興味深い話を聞いた。石岡の人は獅子を舞うというよりも「獅子を揉む」と言うらしい。舞うでも踊るでも振るでもなく、揉む。これは新しい発見だった。

船の上で肩車して獅子舞!?アクロバティックな「船上継ぎ獅子」、愛媛県今治市大西町九王にて

愛媛県今治市越智郡大西町九王(くおう)。この地には、船上継ぎ獅子なる獅子舞があると聞いていた。ただでさえバランスのとりにくい船の上で、肩車をしながら獅子舞をするという。聞いただけでもハラハラするような獅子舞が存在するのだ。以前、今治市内で行われた「おんまく」という夏祭りで、いくつかの団体が獅子舞を演舞しているのを見た。しかし、この時継ぎ獅子の頂点に立つ獅子児(ししこ)が獅子頭を被っている団体が偶然か知らぬがひとつもなかった。獅子頭を被った継ぎ獅子が見られなかったこと、そして、船上で行われるというレア感に惹かれて、僕は松山行きのフライトをとった。

余裕のある滞在、三津浜に立ち寄る

飛行機の中では、「右手に富士山が見えます」というアナウンスが入った。すっきりした晴れの日に、まずは松山に前日入りした。松山空港を降り立って、1日目は三津浜まで1時間歩き、暇つぶしをした。港町の生活感あふれる港町の風景はかなり魅力的に思えた。カメラを向けることが後ろめたくなってきて、柔らかく風景に接触できるようなカメラがあるといいのにと思った。船べりにもたれかかる船頭、のんびりと道端を歩く猫、それらすべてが自分にとっては素晴らしい風景だった。伊達という食事処で、三津浜焼きを食べた。入るなり地元の若者とおじさんが飲み友みたいに5人ほど話に花を咲かせていて、自分の入る隙はなかった。しかし、その横のカウンター席に座らせてもらい、店主と思われるおばあちゃんに話しかけてもらった。「どこからきたの?どこに泊まるの?」矢継ぎ早に質問が飛んできて、隣の30代くらいの若者ともその流れで話をするようになった。とても生き生きしていてテンションも高くて怖気付いたし、地元ノリが羨ましくも感じられてなんだか虚しくもなったが、暖かい気持ちにもなった。旅先の食事処は、こういう場所を選ぶべきなのだ。その夜はバンビーズというネカフェに泊まった。塩バターとキャラメルのポップコーンが食べ放題でとても綺麗なネカフェで大満足である。

翌朝に祭りは始まった

翌日7時には三津浜駅まで歩いて、それから波方駅で降り、そこから30分歩いて、祭礼のスタート地点である龍神社に向かった。ここから9時ごろに獅子舞が始まり、船上継ぎ獅子は9時20分ごろ。初見で印象的だったのが、船の上での継ぎ獅子は非常に盛り上がった。海岸沿いにはたくさんの地元民やカメラマンが詰めかけ、場所を取り合うという状況。その中で、アクロバティックな獅子舞が進んでいく。最も難しい四継ぎ獅子は途中で力尽きて子どもが下の大人たちのところに飛び降りるみたいなハラハラするシーンもあった。人間の高いところに届きたいという欲望のようなものを感じたし、技芸はどんどん難しいところを目指してしていくという実感を得た。海上での演舞の最後に、紅白の餅まきをしていて、海に投げられてしまった餅たちを全身ずぶ濡れになりながら取りに行く子どもたちがどこか微笑ましかった。

獅子舞をラストまで追いかけた

それから海岸を上がって、道を歩きながら獅子舞が行われた。狭い道を獅子が左右に大きく目一杯舞い歩く姿が印象的だった。最後は九王地蔵堂に到着。ここではおそらくフル演舞だったのだろう。1時間以上はさまざまな舞いが繰り広げられた。終了したのが11時半ごろだ。獅子舞は午前中約2時間半ほどの演舞と練り歩きであった。神輿は龍神社から少し歩いて船に乗るでは同じだが、そこから富山八幡神社へと移動するため、会場での演舞以降は、獅子舞と経路が異なり見られなかった。ただ、最後獅子舞が終わって国道15号線沿いを歩いていると、腰掛けて休んでいる神輿の大群と出会うことができた。結構広い範囲が氏子の区域なんだと思った。

それから、他にも天神社など15号線沿いの神社を見て回ったのだが、もうすでに獅子舞が終了しているような様子だったので、そのまま通り過ぎた。鉄板焼きを食べて、図書館に籠って継ぎ獅子の資料を読み漁った。冊数は多いが、内容がシンプルすぎる印象で、継ぎ獅子の調査研究はもっと進んでほしいとは思った。それから、大井八幡大神社に立ち寄り、大西駅から電車に乗って松山駅で降りて、じゃこてんうどんを食べてから、松山市駅から夜行バスに乗って帰路についた。今回の旅はどこか余裕のある旅だった。その分、道端の小さなものに注目するような機会にもなったし、業務的な要素は薄く、心の豊かさと向き合う良い機会となった。忙しない道場の中に、レタリングの面白い良い看板とか、庭木や鉢が充実している店先とか。自分の暮らしへの妄想が広がっていく要素もあった。継ぎ獅子も船上継ぎ獅子は人気だから多少の観光地化も免れないとは思っていたが、案外アクセスが困難だし地元の人も多くて、素朴な風景として一連の流れを捉えることができた。見応えある演舞と素朴さを両立することは案外難しいようにも思うので、そういう意味で素晴らしい獅子舞の形を観ることができた。

九王獅子連とは?

それでは改めて、今回の獅子舞の基本情報について触れよう。龍神ヶ鼻にある龍神社がスタート地点となった。龍神社はもともと、神武東征の際に、激しい風波にあって龍神の助けで九王の浜に何を避けられたことから竜神を祀ったことに始まる。かつて江戸時代に龍神社は松山藩の雨乞の祈祷所としての性格を持っていた。ここで演じられる継ぎ獅子は今治市越智郡で特徴的な曲芸的な立技を披露する獅子舞のことである。もともと龍神社の祭礼は旧暦9月7日であったが、1932年(昭和7年)から5月20、21日となった。近年は休日に合わせて5月第3日曜日に行われているようだ。

ここでは神輿の海上渡御に供奉するという形で、シシブネが出て、獅子舞が海上で舞われる。この「船上継ぎ獅子」と呼ばれる獅子舞は江戸時代末期に始まったと言われており、約200年の歴史があるとされるシシブネは小型漁船2隻をつなぎ合わせ、座板をその上に乗せて接着して、ゴザを敷いて四方には斎竹(いみだけ)を立てて、注連縄を張った作りとなっている。これを手漕ぎするとともに、途中から動力を積んだ漁船が引っ張るという形で海上へと進んでいく。

獅子の基本動作

獅子舞は基本動作が2つあってそれを「曲(きょく)」と「練る」というそうだ。曲は獅子頭を上下させる動きで、練るは獅子頭を左右に動かしながら、足を前に蹴上げて舞う動きである。

演目としては、「①練る、②ダイバ(提婆):天狗が笹と刀で悪魔祓い、③立ち芸:二継ぎ、三継ぎ、四継ぎ、④もちつき、⑤スリガネ:少年が三番叟を踏む、⑥オヤス:お多福面をつけた少年が油単の穴から顔を出す、⑦マエギ:獅子頭持ちと油単持ち2名で演舞、獅子が脇差を咥えて舞う等の所作あり」などがある。

かつては五継ぎ獅子、六継ぎ獅子もしたことがあるそうだが、今では四継ぎが人数的に精一杯であり、昔は高すぎると上に乗った大人を受け止めきれずに入院者が出たという話も残されている。四継ぎ獅子の場合、一番下をダイ(台)、ダイの肩に乗る者をナカダイ(中台)、その上をコウツカイ(子使い)、最も頂点に立つ少年をシシコ(獅子子)と呼ぶ。五継ぎの場合はナカダイ(中台)が2名となり、三継ぎの場合はナカダイ(中台)が0人という考え方になる。

他の地域との繋がりは?

個人的に面白かったのが、練り歩きの時に二継ぎ獅子、つまりカタグルマ状態に似たような感じで大人が子どもを背負って、練り歩いている場面があったが、これは石川県加賀市田尻町の獅子舞で見たことがある。神社から公民館へと移動する際に、肩車で担がれた青年団の重役が意気揚々と歩いている姿を見た。加賀方面には棒振り文化があるから、田尻町における獅子と対峙する棒振りが、今治におけるシシコという対応関係として似たものがあるのかもしれないと思ったが、完全に推測の域を出ない。

またマエギという演目は完全に伊勢大神楽から取り入れられたように思われる。伊勢大神楽で言うところの剣の舞のような所作であることに驚いた。ダイバと呼ばれる天狗も、伊勢の猿田彦のような感じがする。そもそも継ぎ獅子の歴史を辿ると、江戸時代中期ごろに伊勢大神楽から習った説が濃厚で、それをより高く高くしようと継ぎ獅子というアクロバティックな舞いへと独自の変化が生まれたわけだ。

 

◯主要参考文献

愛媛県生涯学習センター『昭和を生き抜いた人々が語る 愛媛の祭り(平成11年度地域文化調査報告書』平成12年3月

◯その他の参考文献

大西小学校『小学校3・4年生副読本 大西のくらし』昭和43年4月初版発行 P61.62

近藤福太郎『大西の文化財』大西町史談会、平成16年1月 p16

愛媛県歴史文化博物館『平成十二年度企画展 愛媛まつり紀行ー21世紀に伝えたい郷土の祭礼』平成12年7月p34

押岡四郎『愛媛民俗伝承の旅 まつりと年中行事』愛媛新聞社 平成11年4月 p76

※基本的に文献は多いが少しのコメントが載っている程度なので、全体的に継ぎ獅子の調査を進めねばと個人的には思っているところだ。

 

 

 

東京都豊島区「長崎獅子舞」、大地を回りながら踏みしめる。暮らしから発生した舞い

2024年5月12日(日)東京都豊島区で唯一の民俗芸能とされ、区指定無形民俗文化財となっている長崎獅子舞を訪れた。

当日のスケジュールがこちらで、お囃子団体もいくつか来ていたようだったが、長崎獅子舞の出番だけを抜き出すとこんな感じだった。

11:00〜ふんごみ
14:20〜14:40 平舞
15:30〜16:00 花巡り(花舞)
16:20〜16:30 ふんごみ
16:50〜17:30 幕係り

午後からの部を全て拝見することができた。実際に拝見してみて、躍動感ある動きがかっこよく、またちょこちょこと小刻みに歩く様子が可愛らしく感じられた。

長崎獅子舞とは?

大夫獅子、中獅子、女獅子が登場する三匹獅子舞。大夫獅子が貫禄のある雄、中獅子が雄、女獅子が雌という構成だ。女獅子は大夫獅子のお嫁さんで昔の人はお歯黒だったのでこの獅子もお歯黒になっている。それに花笠、おんべ(舞が一幕終わるごとに榊を持ち振って祓い清める役)、高張提灯、世話人などがつく。獅子頭は龍の形で、頭の後背には地鶏の羽が漆黒に輝く。長崎神社境内のモガリと呼ばれる聖域の中で演舞される。場合によっては塩化ビニールを使って作られた笛を吹きながら、練習することもあるという。舞い方の演目はふんごみ、平舞、笹舞、花舞(はなめぐり)、花四つ舞、幕掛り舞、帯舞などがある。江戸東京の近郊農村の行事として長い間継承されてきたが、東京都北豊島郡長崎村は豊島区に吸収。首都圏のスプロール化、都市化の波に飲み込まれて住環境は変化した。その中でも、危機を乗り越え現在でも継承されている。


長崎獅子舞の歴史

3匹獅子舞であり、東京都内では非常に古い型を今に残す。ゆっくりと長い舞いが繰り広げる。この獅子舞の起源を遡れば、江戸時代の元禄年間に遡る。伊佐角兵衛という人物が病の床に臥せっていたが、長崎神社に詣でることを繰り返すとたちまち病気が全快したという。それに感謝した伊佐角兵衛が、村人たちと総出で獅子舞を奉納したのが始まりだ。文書の記録だと1847年(弘化4年)9月に演舞の記録が残されている。

それから中絶を何度も繰り返しながらも今に至る。五穀豊穣と悪病退散を願って江戸時代から行われてきた舞いだ。平成4年には豊島区無形民俗文化財に指定された。今では毎年長崎神社のお祭りで、5月第二日曜日に開催されている。


興味深かったこと①ふんごみの舞い

「ふんごみ」という舞いがあり、担い手ははじめに習うのがこの演目であり、基本動作とされる。「ふんごみ」の意味はけっして汚いものではなく「ふみこむ」から転じた意味があり、大地を回りながら踏み締めることを指す。非常に興味深く、日本の民俗芸能の各所で見られる反閇の所作に通ずるものがある。

興味深かったこと②藁獅子

長崎獅子舞は稽古の際に使う「藁獅子」というものがあり、稲刈り後に出た稲穂を少し湿らせ槌で打ってから、使って縄をなうという工程で30分ほどあればできるという。それは5~6年使用できるらしい。また旧長崎村は茄子の生産地として知られており、藁獅子の鼻の部分の編み方は茄子の苗床の縁の編み方と同じとのこと。生活動作から生まれた獅子でもあったのだろう。だからこそ練習用として重宝されたし、練習がしっかりできたら本番の獅子頭をかぶるのが楽しみになるような存在でもあったのだ。
このようにその地域の気候風土を体現する獅子舞というのは興味深い。昭和16年12月発行の『民族学年報』3巻の古野清人著『下野の獅子舞ー本邦農耕儀礼の一研究』という文章によれば、下野(栃木県)の獅子舞が農作物の風害を防ぐ意味があると書かかれている。つまり、厄除けや雨乞いなどの意味もあるが、畑作雑穀生産地帯ゆえの地域特性が反映されており、炎天下でも長い時間単調に舞い続けねばならない意味がそこにある。作物がよくできますようにという願いが込められていれば、村の中心的な行事としても成立する。そういう流れでもあった。藁獅子の話は地域で行われることの必然性について考えさせられる事例である。

参考文献
東京都豊島区教育委員会『豊島区長崎獅子舞調査報告 第一分冊』平成3年10月31日発行

東京都豊島区教育委員会『豊島区登録文化財 長崎獅子舞の伝承』平成4年6月1日発行

東京都豊島区教育委員会『豊島区文化財ブックレット1 長崎獅子舞のおはなし』平成29年3月発行


獅子頭制作12日目

本日、茨城県石岡市での獅子頭制作12日目。今日は獅子頭の構造というよりは、表面的な装飾がメインとなった。今日のミッションはこちら。

・歯をVの字の形で溝のように彫る
・眉をVの字の形で溝のように彫る
・額の皺や頭頂部のラインを彫る

実際にやってみて、割れないように一本のラインを引くことが難しかった。ノミや切り出しを使い、前後のどこの面を使ってもよく、自由なやり方で彫っていく。そして徐々に丸い丘のように表面を整えていく。「これたくさんあるからあげるよ」ということでいただいた金属のやすりを使って、形を丸く柔らかく整えていく過程が面白かった。Vの字に沿わせるよりも45度くらいの角度で整えていくのだ。 

眉の線の本数は機械的に決められているものではなく、左右で本数が違う場合も多い。また師匠によっても、眉の大きさの感覚が異なることがわかった。こういうところは大まかでもしっかり石岡らしい獅子頭のデザインだと思えるのは、構造部分の設計がしっかりしているからだろう。構造と意匠に分けて考える大事さを知ることとなった。

まだまだ中盤といったところだろう。獅子頭作りは先は長い。毎月どこかの土曜日に石岡市まで電車で通って帰ってくる。このリズムに慣れてきた。いつも石岡駅まで車で送ってくれる人は足を懸命に動かしている。今度将棋大会があるらしくお元気だ。車の助手席には新聞紙などが置いてあり、それを後ろの席に置き直してもらって車に乗せてもらう。いつも石岡の国道6号線は16時過ぎに混んでいる。石岡市は観光する土地だったはずが、日常の風景へと自分の意識の中で変容していくことがまた面白い。

【2022年12月】石川県加賀市 獅子舞取材 大聖寺仲町

2024年5月4日、石川県加賀市大聖寺仲町(なかちょう)で獅子頭が発見されたとの連絡を受けて、取材を行った。

新しく獅子頭を発見に至った経緯としては、今年3月、大聖寺仲町在住の井上隆司さん(隆の生の字は横棒4本、生の上に横棒が1本増える形。以下井上さん。)が自分の家の蔵の取り壊しに際し、蔵を片付けていたところ獅子頭を発見。その隣の小屋にある、人間の背丈をやや超えるくらいの高い位置に設置された木製の棚の上に、それを置き直した。獅子頭を発見したことを大聖寺仲町住人の水口さんに相談すると、その水口さんの息子さんから、加賀市獅子舞を応援する会の熊岡さん(BAR Friends)に連絡がいった。それで、今回取材に至ったというわけだ。

蔵に保管されていた獅子頭の状態としては、漆がやや禿げているものの、実際に祭礼で使えるくらい状態が良かった。獅子頭のサイズは子ども用だろう。比較的小さなサイズである。獅子頭が入れられていた箱には、その他に紐、風呂敷、尻尾、蚊帳、昭和26年のなかよし会の会計資料が入れられていた。それを覆う箱は黒くて長方形で、白い紐で結ばれていた。

昭和26年の町内のなかよし会の会計簿の紙が箱の中から発見され、それ以後の資料が箱に中に見られないことから、この年が獅子舞の最終年だった可能性はある。また、なかよし会は大聖寺仲町大聖寺片原町の合同で行われていたようなので、獅子舞も合同で実施していた可能性があるが推測の域を出ない。会計資料には獅子舞の町回り(門付け)の紙もあり、回るスケジュールと場所、そしてご祝儀の金額が書かれていたが、これは本陣に舞いに来た獅子舞の町名なのか、仲町から舞いに行った町のことなのかは不明である。50円から500円などで、祝儀を渡した記録が残されていた。

それから大聖寺仲町で最も年配で、昔のことをご存知であろう現在84歳の稲坂先生(昭和15年生まれ)にお宅に伺った。稲坂先生によれば、「自分も同級生も獅子舞をしていたという記憶はない」という話だった。太鼓は長いこと稲坂先生の家に保管されており残っていた。しかしいつの間にかなくなっており、他の家で保管されることになったらしい。皮のところがベロン!と剥がれた状態になるまでずっと保管していたので、最終的には近所の水口さんが処分した。

それから実際に獅子頭が発見された蔵を持つ井上さんにもお話を伺った。井上さんは現在72歳で、戦後の昭和27年生まれである。井上さんの話によれば、自分が物心ついた頃には、既に獅子舞が途絶えていた。ただし井上さんは九谷焼の卸問屋をしており、所帯出の井上慶作さんと息子の陽一さんが手伝いに来ていて、仲町の世話役をしていたその慶作さんに獅子舞を教わり、真似っこ遊びをしていたことがあった。これはおそらく井上さんが10歳ぐらいの時、約60年前の話である。太鼓もあったので、太鼓と獅子で遊んでいた。獅子舞の中には、頭と尻尾とその真ん中で、3人ほど入った。ただし、あくまでも真似っこ遊びなので、その舞い方ははっきりしたものではなかったようだ。井上さん宅には蔵が3つあって、その中でも福井地震で潰れた蔵の跡地の広場で、獅子舞をしていた記憶があるという。

その真似っこ遊びが行われていた頃から、井上さんの蔵に獅子頭が保管されていたかもしれないとのこと。それ以前には獅子頭を区長さんが変わるごとに、町内持ち回りで保管場所を移動させていた時期があったが、少なくとも獅子舞ごっこをはじめたあたりからは、井上さんの蔵にずっと保管されていたと考えられる。

発見された獅子頭を撮影する様子

井上さんと獅子頭が発見された倉庫をバックに撮影

撮影した大聖寺仲町獅子頭

 

日本最古の大陸系獅子舞、その始まりとは?大阪府天王寺舞楽の獅子

古来の風格を纒う獅子は、1400年の歳月を今に伝える。2024年4月22日、大阪府大阪市四天王寺天王寺舞楽を観た。大陸系の中で日本最古の獅子とも言われ、その始まりは聖徳太子の時代に遡る。この獅子の起源をより明確に知りたいという思いもあり、現地を訪れた。今回は背景知識を過去の文献を参考にしながら振り返ることをメインに書かせていただこう。

四天王寺外観

舞楽の起源「伎楽」の伝来

新撰姓氏録』によれば、欽明天皇のころ(6世紀中頃)、大伴狭手彦が朝鮮に使いとして派遣された時、和薬使主(やまとのくすしのおみ。650年に孝徳天皇に牛乳を献じて和薬使主の姓を賜った善那使主の父親・智聡の誤り?雅亮会『天王寺舞楽』を参照)によって「伎楽調度一具」が伝えられたとある。しかしここで定かなのは道具が伝わったことであり、楽舞が伝えられたかは不明である。

ここから時代は下り、日本書紀によれば、612年に味摩之(みまし)が百済から帰化し、呉国に学んだ伎楽に長けていたことから、桜井(現在の飛鳥豊浦の向原寺)に住ませて、少年へ伝習させたとなっている。『教訓抄』所引の古記によると、大和国橘寺、山城国太秦寺とともに、摂津国四天王寺にもこの味摩之が寄せ置かれたとある。人々は当時、この伎楽を学ぼうといういう意欲は少なく、学んでもなかなか上達しないという状況が続いた。そこでこの技を伝習するために、課役(割り当てられた仕事)を免ずることや、仏教の供養や法会において伎楽を積極的に導入したことなどから徐々に広まり始めた。

701年に雅楽寮が設置された際は、伎楽が四天王寺と大安寺で寺院の楽として保存されることとなった。この時、伎楽以外にも久米舞や五節舞などの楽舞や歌謡も一緒に伝習された。ただ時代の移り変わりで伎楽は舞楽への流れは止められなかった。伎楽の上演記録としては、1181年4月8日の南都禅定院にて行われたとされる。その後、1299年11月に東大寺で伎楽会が開催された時には、内容が舞楽楽人に向けて伝えられていたため、すでにこの100年のうちに伎楽の形骸化が起こっていたと考えられる。ただし四天王寺の獅子の曲は今でも伎楽の時の名残をとどめており、これは多くが途絶えてしまった伎楽の一部を残す貴重な例である。

そもそも雅楽舞楽の違いは?

ここで、舞楽の話をする前に、雅楽舞楽の違いについて触れておこう。雅楽は外来の楽舞およびこれらの音楽や舞を手本として日本で作られた楽舞のことで、雅楽の中でも楽器のみで演奏することを「管弦」、舞を伴うと「舞楽」と呼ぶ。舞楽の中でも中国大陸に由来するものを左舞として赤・紫・金といった装束を身に纏い、朝鮮半島に由来するものを右舞として緑・黄・銀といった装束を身に纏う。ちなみに天王寺舞楽の獅子は右舞とされ、左舞は菩薩である。

天王寺舞楽とは?

ここからが本題の天王寺舞楽についてだ。これは聖徳太子の命日に行われる法要で、1400年の歴史がある。現在は4月22日に行われているが、かつては旧暦2月22日に行われていた。聖徳太子がいた時は法華会と呼ばれていたが、死後は聖霊会と言われ現在に至る。「聖徳太子傳記」に記されていることには、612年に味摩之(みまし)が伝えた伎楽を習ったのが、上記の少年たちであり、そこには側近の秦河勝の息子5名、孫3名、秦河満の息子2名、孫3名がいた。さらに四天王寺に32名の楽人を置いたとも言われている。これが後に四天王寺舞楽や伎楽の演奏を担当した楽家につながる。

雅楽舞楽の演奏を担当した楽家と楽人の組織を「天王寺楽所(がくそ)」と呼ぶ。天王寺楽所は後世においても、聖徳太子の時代に伎楽を学んだ秦河勝の子孫たちの末裔であると考えており、秦姓の楽人は東儀、林、薗(その)、岡の四家に分かれて、共に四天王寺に奉仕した。天王寺楽所という演奏家集団は7世紀半ばには既に存在していたと考えられるが、正式な記録は12世紀の平安時代になってからとも言われている。

平安末期には三方楽所の制が定められて、北京楽所(京都)、南京楽所(奈良)、天王寺楽所(大阪)の3つが朝廷の御用達となって朝廷の庇護を受けていた。ただし、天王寺楽所のみ京都から遠く辺境であったため、朝廷における力は他の2つに比べて弱かったとされ、逆に民衆支持のもとで栄えてきたという経緯がある。民衆にわかりやすい舞楽を心がけてきたとも言える。

天王寺舞楽特有の表現として小野功龍は「舞の線の太さと勇壮さ、スケールの大きさ」を挙げており、これは天王寺の石舞台が大きいことや参詣客が遠巻きに鑑賞するという舞台環境が作り出した特徴である。また東儀俊美はメリハリの良さという特質を挙げている。また、小野真龍は根本精神に大乗仏教があるとしており、聖徳太子の御霊を供養するだけでなく、石舞台上を浄土として、多くの民衆に仏縁を結ばせその縁を深める意味があるという。

さらに伎楽の系譜を受け継いでいるため、パントマイム的な芸能であったとも言われており、古来近世以前はやや下品と考える者もいたようだ。その表現として年老いた翁が鼻を手でかむという表現をリアルに演じたり、胡徳楽では酔っ払ってふらふらしたり、従者が盗み酒をしたり、かわらけ(杯)をポーンと四天王寺の六時堂前の池に投げたりなどの演出があった。これらの特徴からして、京都や奈良の楽人からすれば癖のある舞であり、自分たちの方が格の高い舞だという印象を持っていた。ただし天王寺舞楽は創建以来の反骨精神があり、応仁の乱の際に京都や奈良が焦土となった時に、天王寺楽所の楽人が大活躍して復興に努めたなどの素晴らしいエピソードも残されている。江戸時代以降は高尚な趣味として取り上げられることも多くなった雅楽。それをを教えるのが天王寺舞楽という構図もあったようだ。

天王寺舞楽・蘇利古(そりこ)の舞

天王寺舞楽・迦陵頻(かりょうびん)が石舞台へと向かう

菩薩と獅子、その役割とは?

さてここから獅子舞研究者として、獅子に触れていきたいと思う。天王寺舞楽の獅子は現在、菩薩とセットで演じられる。どちらも舞楽の中盤で演じられる演目だ。現在では舞いの伝承が失われてしまっているため、簡単な所作にとどまる。どちらも推古天皇の時代に伝来した伎楽が源流となっている。

菩薩と獅子の共通する所作は「大輪小輪(おおわこわ)」である。菩薩も獅子も2対で1組とされており、石舞台へと登って降りてを2回繰り返し、石舞台上では2重の輪を描くような動きが行われる。これは四天王寺独特の舞台構造を利用して創作された演出でもあり、四天王寺のみで行われている。また、菩薩と獅子は平安初期ごろまではそれぞれが独立した舞いが行われていたが、平安末期にはその舞いが断絶したものの、天王寺舞楽においては供養舞の一部に見事に組み込まれたという形だ。

またこの伴奏は笛と打楽器で構成されており、13世紀成立の雅楽の専門書『教訓抄』には四天王寺住吉大社独自の曲を演奏しており、本来の獅子の曲より面白いというような内容が書かれている。つまり都の雅楽とは異なる形で伝承が保存されてきたというわけだ。

獅子は後世、三味線音楽や歌舞伎、舞踊に取り入れられ広く普及した獅子舞の原型であり、大陸系獅子舞の最も古い原型である。天王寺舞楽における獅子の役割は何か。それは仏教世界における祓い清めの精神に通ずる。2頭の獅子は本坊を出て左と右に分かれて石舞台で合流し、そして六時堂へと至る聖霊会の道行の先頭で露払いを行う。また後ほど石舞台の上での舞楽では法要の場を清めるという役割を担う。

行道をする天王寺舞楽の獅子、その後ろに菩薩

舞台上で演舞する天王寺舞楽の獅子①

舞台上で演舞する天王寺舞楽の獅子②

こんな獣の舞いもある!蘇莫者について

四天王寺では蘇莫者(そまくしゃ)の舞というものがある。それは褌脱(こたつ)舞であり、褌脱とは動物の骨肉を抜いた皮袋を帽子として被った舞い方のことである。猿や蛙といった動物をモチーフににしたモノマネ演技であり、鳥獣戯画の主人公にもなるようなユーモアがあった。しかし、演技者からみれば、好ましいものではなくて自然に忌避されることになった。しかし、四天王寺にはそれが伝承されている。この舞いの起源には中央アジアサマルカンドが考えられ、そこから古代中国を経由して日本に入ってきたようだ。動物をモチーフにしている点では、獅子にも通じる何かがあるかもしれないと思い、ここで簡単に触れておく。

天王寺舞楽の伝承の秘訣!

吉田兼好著『徒然草』によれば、「何事も辺土は賤しくかたくななれども、天王寺舞楽のみ都に耻ぢず」とあり、兼好が天王寺楽人にそのわけを訪ねたという。そうしたら、「天王寺の音楽がすぐれているわけは、春秋の彼岸の中日頃の黄鐘調(おうしきちょう)の引導鐘の音に調子を合わせて正しいピッチで練習をしているからということらしい。四季ある日本において、お彼岸は比較的標準温度の気候であり、最も正しいリズムを刻んでいるというのだ。鎌倉時代には既に科学的錬磨が行われていたことには感銘を受ける限りだ。

また江戸時代、楽人町という寺領があり、ここに楽人が一堂に居住していた。しかし、江戸時代の宝暦の頃に、楽人町から楽人が離脱して、舞楽の伝流を自由な形で行う動きが強まった。つまり寺院楽や宮廷楽から民衆の楽へと転換することで、舞楽伝流への意欲を高めることになったとも言われている。このようにどこまでも民衆に近いのが天王寺舞楽であり、そこには担い手による隠れた伝承のコツ、工夫があったわけだ。

 

ps. 和歌山県三面獅子との関連性

今年2月に訪れた顯國神社の三面獅子はやはり、この天王寺舞楽にも近い舞楽や伎楽の系譜を受け継いでいると思う。獅子頭が黒色であること、太鼓のリズム、面の形の観点で、和歌山県の三面獅子と四天王寺舞楽の獅子は非常に共通点があると思った。江戸時代以前の記録はないが、中世に祭りの先導役と厄祓いを主として担った「行道獅子」に似たような形態を持つ獅子だ。またオニは天狗あるいは伎楽の鼻高面、ワニは伎楽の崑崙にも似ているように思えるが関連性を示す資料は見当たらない。ここについてはさらに深く調査していきたいものだ。

 

参考文献

南谷美保『四天王寺聖霊会の舞楽 増補版』東方出版, 2008年8月

雅亮会『天王寺舞楽講談社, 1978年10月

小野摂龍「天王寺舞楽と雅亮会の歩み」, 『大阪春秋 第8巻 第3号 通巻25号』大阪春秋社, 1980年9月

小野真龍「天王寺舞楽〜浪速に残る最古の古典芸能」, 『やそしま 第十二号』(公財)関西・大阪21世紀協会, 2018年12月

南谷美保「秦姓の舞ー天王寺舞楽天王寺楽人のお話ー」,『和 Communication 四天王寺 第770号』 四天王寺 2015年10月

中田文花「絵で見る四天王寺聖霊会 第7回 国指定重要無形民俗文化財聖霊会の舞楽」(天王寺舞楽)の歴史」,  『和 Communication 四天王寺 第774号』四天王寺 2016年6月

四天王寺『和 Communication 四天王寺 第800号』2020年12月