東京都豊島区「長崎獅子舞」、大地を回りながら踏みしめる。暮らしから発生した舞い

2024年5月12日(日)東京都豊島区で唯一の民俗芸能とされ、区指定無形民俗文化財となっている長崎獅子舞を訪れた。

当日のスケジュールがこちらで、お囃子団体もいくつか来ていたようだったが、長崎獅子舞の出番だけを抜き出すとこんな感じだった。

11:00〜ふんごみ
14:20〜14:40 平舞
15:30〜16:00 花巡り(花舞)
16:20〜16:30 ふんごみ
16:50〜17:30 幕係り

午後からの部を全て拝見することができた。実際に拝見してみて、躍動感ある動きがかっこよく、またちょこちょこと小刻みに歩く様子が可愛らしく感じられた。

長崎獅子舞とは?

大夫獅子、中獅子、女獅子が登場する三匹獅子舞。大夫獅子が貫禄のある雄、中獅子が雄、女獅子が雌という構成だ。女獅子は大夫獅子のお嫁さんで昔の人はお歯黒だったのでこの獅子もお歯黒になっている。それに花笠、おんべ(舞が一幕終わるごとに榊を持ち振って祓い清める役)、高張提灯、世話人などがつく。獅子頭は龍の形で、頭の後背には地鶏の羽が漆黒に輝く。長崎神社境内のモガリと呼ばれる聖域の中で演舞される。場合によっては塩化ビニールを使って作られた笛を吹きながら、練習することもあるという。舞い方の演目はふんごみ、平舞、笹舞、花舞(はなめぐり)、花四つ舞、幕掛り舞、帯舞などがある。江戸東京の近郊農村の行事として長い間継承されてきたが、東京都北豊島郡長崎村は豊島区に吸収。首都圏のスプロール化、都市化の波に飲み込まれて住環境は変化した。その中でも、危機を乗り越え現在でも継承されている。


長崎獅子舞の歴史

3匹獅子舞であり、東京都内では非常に古い型を今に残す。ゆっくりと長い舞いが繰り広げる。この獅子舞の起源を遡れば、江戸時代の元禄年間に遡る。伊佐角兵衛という人物が病の床に臥せっていたが、長崎神社に詣でることを繰り返すとたちまち病気が全快したという。それに感謝した伊佐角兵衛が、村人たちと総出で獅子舞を奉納したのが始まりだ。文書の記録だと1847年(弘化4年)9月に演舞の記録が残されている。

それから中絶を何度も繰り返しながらも今に至る。五穀豊穣と悪病退散を願って江戸時代から行われてきた舞いだ。平成4年には豊島区無形民俗文化財に指定された。今では毎年長崎神社のお祭りで、5月第二日曜日に開催されている。


興味深かったこと①ふんごみの舞い

「ふんごみ」という舞いがあり、担い手ははじめに習うのがこの演目であり、基本動作とされる。「ふんごみ」の意味はけっして汚いものではなく「ふみこむ」から転じた意味があり、大地を回りながら踏み締めることを指す。非常に興味深く、日本の民俗芸能の各所で見られる反閇の所作に通ずるものがある。

興味深かったこと②藁獅子

長崎獅子舞は稽古の際に使う「藁獅子」というものがあり、稲刈り後に出た稲穂を少し湿らせ槌で打ってから、使って縄をなうという工程で30分ほどあればできるという。それは5~6年使用できるらしい。また旧長崎村は茄子の生産地として知られており、藁獅子の鼻の部分の編み方は茄子の苗床の縁の編み方と同じとのこと。生活動作から生まれた獅子でもあったのだろう。だからこそ練習用として重宝されたし、練習がしっかりできたら本番の獅子頭をかぶるのが楽しみになるような存在でもあったのだ。
このようにその地域の気候風土を体現する獅子舞というのは興味深い。昭和16年12月発行の『民族学年報』3巻の古野清人著『下野の獅子舞ー本邦農耕儀礼の一研究』という文章によれば、下野(栃木県)の獅子舞が農作物の風害を防ぐ意味があると書かかれている。つまり、厄除けや雨乞いなどの意味もあるが、畑作雑穀生産地帯ゆえの地域特性が反映されており、炎天下でも長い時間単調に舞い続けねばならない意味がそこにある。作物がよくできますようにという願いが込められていれば、村の中心的な行事としても成立する。そういう流れでもあった。藁獅子の話は地域で行われることの必然性について考えさせられる事例である。

参考文献
東京都豊島区教育委員会『豊島区長崎獅子舞調査報告 第一分冊』平成3年10月31日発行

東京都豊島区教育委員会『豊島区登録文化財 長崎獅子舞の伝承』平成4年6月1日発行

東京都豊島区教育委員会『豊島区文化財ブックレット1 長崎獅子舞のおはなし』平成29年3月発行