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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

神話が隠した不自然な史実(;一_一)

2024-06-01 12:49:01 | 古代史
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#2021-10-20 17:09:01に記事にしましたが、その後「持統天皇は存在しない!女帝はすべてフェイク」という重要な事実がわかったので(注3)に補足しました。記紀は勝者藤原氏の歴史書であって、天皇の歴史書ではないのです。これは2世紀末から3世紀後半の考古学の成果から判明したのです。多くの方は天皇の歴史書だから基本的に正しいとして事実に合うように解釈するのですが、いくら努力しても事実ではないので謎ばかり残るのです。込み入った話で恐縮ですが、よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

日本神話の正体についてはすでに記事にしていますが、ほとんど知られていない驚くべき内容だと思います。初めての方には刺激が強すぎて、嫌悪感さえ抱かれかねないものだったと思いますので、どうしてこんな話になってしまったのかご理解いただくために、ここでもう少し説明したいと思います。長いですがお付き合いください。

藤原不比等が藤原氏だけの繁栄を考えて、686年(朱鳥元年)9月の天武天皇崩御から約30年後(720年)に「日本書紀」を完成させたのには、当然その前に不比等が権力を握る期間があったのです。

皇位を皇后鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女、後の持統天皇)の子で皇太子の草壁皇子に継がせるために、『懐風藻』に書かれた内容から考えて、皇太子でないことの方が不思議なほど抜群の人物だった大津皇子を、謀反の罪により朱鳥元年10月2日に自害させたと考えられます。

この事件を企てたのは、謀略に長けた不比等だと考えられます。不比等は天智天皇に重用された藤原鎌足の子です。壬申の乱(672年)で天智天皇の皇太子大友皇子を破って皇位についた天武天皇の治世では表に出てきません。

「日本書紀」によれば689年(持統三年)に31歳で直広肆(ぢきくわうし、官位四十八階の上から十六位、従五位下)判事に起用されたとあり、初めて登場しています。

すでに679年頃、一歳年下で甥の草壁皇子と結婚した阿閇(あへ)皇女(鵜野讃良の異母姉、後の元明天皇)の女官だった県犬養三千代(あがたいぬかい の みちよ)を、時期は不詳ですが、不比等は妻としていたので、三千代が阿閇から聞いた皇后の希望をかなえるために、不比等に相談して、大津皇子の排除を企てたものと考えられます。

しかし、草壁皇子は病弱で、689年4月に27歳の若さで薨御しました。683年に草壁と阿閇に珂瑠(かる)皇子(後の文武天皇)が生まれていたので、鵜野讃良は、幼い孫の珂瑠を即位させるために、不比等と盟約したと考えられています。

まず、皇太子急死による朝廷内の動揺を抑えるためにその二か月後に、天武の治世から編纂事業が続いていた日本史上最初の体系的な法典「飛鳥浄御原令」を制定し、施行しました。律は制定されず、令22巻のみが急きょ発布されました(注1)。

鵜野讃良(持統天皇)は草壁薨御の翌年690年正月元日に即位しましたが(注2)、この時草壁の佩刀「黒作懸佩刀(くろづくりのかきはきのたち)」を不比等に賜ったのは、二人の盟約を象徴するものなのです。この佩刀が天皇即位の時に授受される「神璽の剣鏡」に該当する、その私家版ともいうべきものだったとあります(土橋寛「持統天皇と藤原不比等」中公新書1192,1994,まえがき)。

即位の後、大赦を行い、天武天皇の長男で優秀な人物ですが、宗形徳善娘尼子娘(注3)を母とするため皇位を継げないとされた高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命し、大規模な人事異動を行っています(wiki「持統天皇」)。恐らく、不比等の事前の画策によるものでしょう。

691年(持統五年)、持統天皇を後ろ盾とする不比等が近江に出かけ、市杵島姫命(原八幡神「卑弥呼」)を祀る和邇(ワニ)氏の社(後の日牟禮八幡宮、近江八幡市)に参拝し、和歌を残しています。歌に因み比牟禮社(ひむれのもり)と改められたとありますから、日食のために殺された卑弥呼の史実を隠すために強権を振るったと考えられます。恐らく、元の社名は日蝕社(ひはえのもり)でしょう。藤原氏の権力維持にとって建国で活躍した先祖を持つ豪族が邪魔ですから、日本建国の史実を隠ぺいする意図がこの辺りからあったと考えられます。

694年8月、藤原宮に遷都します。藤原宮の名は鵜野讃良と不比等のコンビが天智天皇と藤原鎌足のコンビの再来だと宣言したものでしょう(土橋上掲書まえがき)。

697年(文武元年)8月17日(697年9月7日)、持統天皇が譲位して太上天皇となり、15歳の珂瑠が文武天皇として即位しましたが、不比等が「黒作懸佩刀」を天皇に献じています。前年に太政大臣の高市皇子が薨御したので、8月20日に不比等の娘・宮子を入内させ、外戚として権力をふるえるように画策しました。 不比等39歳です。
698年8月、「藤原の姓は不比等をして継がしめ、意美麻呂(おみまろ)らは旧姓(中臣)に復すべし」の詔が発せられました。藤原意美麻呂は不比等の姉を娶り、氏の長者を名乗っていました。

701年(大宝元年) 大宝律令が発せらます。中臣意美麻呂を正五位下に叙せられると、文武朝後半において急速に昇進し、慶雲2年(705年)には従四位上・左大弁に至る。元明朝の和銅元年(708年)には参議を経ずに、正四位下・中納言兼神祇伯に叙任され公卿に列した。天神地祇を祀る最高官職の神祇伯に任じています。(wiki「中臣意美麻呂」)

建国で活躍した人物を祖先神として祀っていた豪族の社の祭神や社名や由緒まで、強権で変更させていますから、「日本書紀」の神話の多くはその頃に創られたのものだと考えられます。

702年、持統太上天皇が58歳で崩御されます。

707年(慶雲四年)6月15日(707年7月18日)、文武天皇が病に倒れ25歳で崩御した時に、不比等が再び「黒作懸佩刀」の管理を委ねられています。そして文武天皇の母の阿閇皇女(元明天皇)は、その孫で、藤原宮子の子の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)がまだ幼かったため、皇后でもない天皇の生母ですが、中継ぎとして即位しました。全く不自然な話だと思います。

709年、大嘗の御宴で不比等の妻三千代が「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏号を賜わります。論功行賞でしょう!

712年(和銅五年)、不比等は宇佐市で八幡神として祀られていた卑弥呼を隠すために、宇佐神宮の前身の鷹居社を作らせたと推理しています(注4)。

714年、首皇子、14歳で皇太子に立てられます。
715年、元明天皇が譲位し、元明天皇の子で首皇子の姉の氷高(ひだか)が即位します(元正天皇)。不比等は安宿(あすか)媛(母は三千代、後の光明皇后)を首皇子の妃としましたが、普通あり得ない話です。

718年、養老律令(律10巻12編、令10巻30編)によって律令体制を規定する基本法典が完成しました。

720年、「日本書紀」が完成し、藤原氏の繁栄を確信して不比等は亡くなりました。

724年、元正天皇が譲位して聖武天皇が即位した時に、「黒作懸佩刀」を不比等は直接献上できなかったのですが、 律令編纂や平城京遷都などに関わった不比等の子の藤原四兄弟が、朝廷で実権を握り、献上したようです。

「黒作懸佩刀」は現存する「東大寺献物帳」に記録され、最後は聖武天皇が献じたとあります。不比等と持統天皇との間の密約は、不比等が実権を握り、持統天皇を母系とする皇子を即位させる、その代償として皇族でない不比等の娘を妃にして、さらにその子、不比等の孫を即位させるものであったと考えられます。その象徴が「黒作懸佩刀」でしたが、現存していないようです。

737年に藤原四兄弟が全員天然痘でなくなります。しかし「藤原四兄弟の子の系統はそれぞれ南家、北家、式家、京家と呼ばれ、それぞれの家に栄枯盛衰はあったものの、その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残している。」(wiki「藤原四兄弟」)

以上のようにして権力を握った藤原不比等がどのように日本建国の歴史の真相を隠したのかについては、すでに数多く記事を書きましたので、それらを是非参照していただきたいと思います(【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆)。

ここでは多くの現代日本人に、実在した日本の皇祖神と信じられている天照大神(あまてらす おおみかみ)が、古来から日本民族によって伝承されてきた女神ではなく、上で述べた不自然な皇位継承等を正統化するために、不比等によって創作された女神であることを以下に図を使って説明します。

日本書紀 神代 上」に天照大神と弟スサノヲとの誓約(うけい)で生まれた三女神・五皇子が登場します。そして第一皇子の天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の子と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の娘栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)との間に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が生まれました。高皇産霊尊がこの孫を、大国主が治める葦原中国の主にしようと考え、瓊瓊杵尊を高千穂の峯に天孫降臨させます。そして、神武天皇が東征して橿原宮で初代天皇に即位する以前の天皇家の祖先の物話が日向三代の神話です。



左図に、神話の登場人物の系図を描きました。右図に不比等の時代の「日本書紀」に登場する皇室の系図を示しました。左図の神話に登場する神に対応する実在人物は、二系統あり、それぞれ【】と()の系統で示しました。

神話の天照大神は【持統天皇】でもあり、(元明天皇)でもあります。天武天皇の他の妃に皇子が居ますので、皇后の鵜野が天皇に即位することはとても不自然です。また、皇后でもない皇太子妃が即位するのも極めて不自然ですが、神話にあったことなので正統だという主張なのでしょう。ここから、前例の二名の女帝(推古天皇、皇極・斉明天皇)も創作だと直ぐに分かります。

ここで気付くことは、高皇産霊神は、「日本書紀」では天地初発条一書第四に、高天原に最初に現れた天之御中主という神の次に現れたとされる上位の神です。【天智天皇】と(藤原不比等)が対応しています。また、大山祇神は二系統とも【藤原不比等】(藤原不比等)です。大山祇は天津神ではない国津神です。天津神(または天神)は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称でその子孫が皇族です。国津神(または地祇)は地に現れた神々の総称とされています。

また、国津神の海神豊玉彦でも【天智天皇】(藤原不比等)としており、それぞれこの二人の子で異母姉妹【持統天皇・元明天皇】(藤原宮子・光明皇后)が神武天皇の祖母豊玉姫と母玉依姫に対応させていますから、これらは正統性から外れていないと主張するために神話が作られたとわかります。つまり、国津神に当たる大山祇の娘が天皇を生んだという神話を作って、不比等の娘の子が天皇に即位することの正統性を示したわけです。

ここで、藤原不比等が鎌足の子ではなく天智天皇の皇胤という説があります。これを信じる学者もいるようですが、不比等皇胤説を自らふれ回ったのではないかという疑念が強く起こります。これによって不比等が天智天皇と同じ立場になることの正統性を主張できるからです。

また、豊玉姫のお産の様子を決して見ないように夫の山幸彦と約束するのですが、約束を破り豊玉姫の正体がワニだと見られてしまったので、生まれた子を置いて隠れてしまいます。そして妹の玉依姫にその子を育てさせて、成人して二人が結婚するという無茶苦茶な話です。玉依姫から生まれた4番目の男の子が初代神武天皇という話ですから、天皇は近親婚で生まれたワニの一族という、まさに天皇家を貶める酷い話になっています。

「因幡の白兎」で述べましたが、ワニは山陰地方でサメのことです。サメを祀っていたのが縄文系のムナカタ海人族です。ヤマトの初代祭祀王の応神天皇はムナカタ海神族の姫巫女台与(とよ)と大国主久々遅彦の子です。神武天皇の祖母豊玉姫の父が豊玉彦という海神ですから、事実を少しだけ反映した話ではあるのです。

藤原不比等が藤原氏繁栄のために創作した史書「日本書紀」が完成した当初は、日本建国で活躍した豪族は、歴史の真相を知っていましたからバカにしていたと思います。しかし、そのウソの歴史を盾に正統性を主張して、強引に権力をふるうわけですから、消された先祖の活躍を後世に何とかして伝えたいと思ったことでしょう。それが「古事記」や「万葉集」「懐風藻」などなのです(詳しくは関裕二「古代史 不都合な真実」じっぴコンパクト新書 2018.1.18 参照)。

しかし、結局千三百年も経過した現代日本人の多くが正史は正しい歴史だろうと何となく思わされています。ですから歴史の真相を暴露するこのような話は、日本民族の結束を損なう耳障りなものだと否定的に捉えられかねません。しかし、真実でないものは、必ず落し穴があります。落し穴に早く気付けば、それだけ適正な対処ができ、日本が救われることがあるはずです。つまり、多くの国民が容認している女系天皇も、保守も前例があるとして認めている女性天皇も全部フェイクなのですから、それに早く気づかないと伝統国家が消滅することになりますね。

女性天皇は「記紀神話」の呪いだった(;´Д`)


(注1)飛鳥浄御原令により、いくつかの重要な事項が定められたとされている。天皇号は本令により規定されたとする説があるが、むしろ、天武期において天皇号が制定され、本令により法典に明記されたのだとする説が有力である。その他、戸籍を6年に1回作成すること、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格が本令により制度化されたと考えられている。律も併せて制定されたとする説もあるが、律は制定されず、唐律が適用されたとする説、そもそもこの時期にはまだ律の編纂に必要な唐律の体系的伝来が行われておらず、またそれを理解・整理できる人材が揃っていなかったとする説もある[1]。

飛鳥浄御原令は、急遽施行されたという事情もあり、必ずしも完成された内容ではなかった。そのため、律令の編纂作業はその後も継続していき、最終的に701年の大宝律令によって、天武が企図した律令編纂事業が完成することとなった。
(wiki「飛鳥浄御原令」)

(注2)持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。ただし以前の儀式が詳しく記されていないので正確なところは不明だが、盾、矛を立てた例は前にもあり、天つ神の寿詞を読み上げることと、公卿が連なり遍く拝みたてまつり、手拍つというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが[11]、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い[12][13]。(wiki「持統天皇」)

(注3)天武天皇の後宮は以下のとおりです(wiki「天武天皇」)。高市皇子の母は天皇の寝所に侍する女官で、皇后・妃(きさき)・夫人(ぶにん)の下位の「嬪(ひん)」でした。嬪は 四位・五位の者で、後世の女御(にょうご)・更衣(こうい)にあたります。高市皇子は第一皇子ですが、皇位継承順位は8番目位でした。

皇后:鸕野讃良皇女(後に持統天皇) - 天智天皇皇女
 第二皇子:草壁皇子(662-689) - 元正天皇・文武天皇・吉備内親王父
妃:大田皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女同母姉
 第二皇女:大来皇女(661-701)- 伊勢斎宮
 第三皇子:大津皇子(663-686)
妃:大江皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女異母妹
 第七皇子:長皇子(?-715) - 文室真人・文室朝臣等祖
 第九皇子:弓削皇子(?-699)
妃:新田部皇女 - 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女異母妹
 第六皇子:舎人親王(崇道尽敬皇帝)(676-735) - 淳仁天皇父、清原真人等祖
夫人:氷上娘 - 藤原鎌足女
 皇女:但馬皇女(?-708)- 高市皇子妃
夫人:五百重娘 - 藤原鎌足女、氷上娘妹、のち藤原不比等妻、藤原麻呂母
 第十皇子:新田部親王(?-735) - 氷上真人・三原朝臣祖
夫人:大蕤娘 - 蘇我赤兄女
 第五皇子:穂積皇子(?-715)
 皇女:紀皇女(?-?)
 皇女:田形皇女(675-728) - 六人部王室、伊勢斎宮
嬪:額田王 - 鏡王女
 第一皇女:十市皇女(653?-678) - 大友皇子(弘文天皇)妃、葛野王母
 平安時代の一条天皇は、十市皇女の12世孫(天武天皇の女系13世孫)にあたる。
嬪:尼子娘 - 胸形徳善女
 第一皇子:高市皇子(654-696) - 長屋王・鈴鹿王父、高階真人・高階朝臣等祖
嬪:かじ媛娘(かじは木偏に穀。※歴史的仮名遣いでは「かぢ」) - 宍人大麻呂女
 第四皇子:忍壁皇子(?-705) - 龍田真人祖、のち知太政官事
 皇子:磯城皇子(?-?) - 三園真人・笠原真人・清春真人祖
 皇女:泊瀬部皇女(?-741)- 川島皇子妃
 皇女:託基皇女(?-751) - 志貴皇子妃


しかし、宗形氏の身分を低くしたのはフェイクだったことが分かりました。(2024.6.1 青字追加)

4世紀から6世紀の后妃に同じ縄文海人ムナカタ族の和邇(わに)氏がなっています。イザナミ、卑弥呼、台与もムナカタ族の姫巫女なのです(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」参照)。

高市皇子が即位できなかったとするために、実はムナカタ族である和邇氏腹の二人の天皇(宇治・住吉)を隠し、初代応神天皇の虚像の神武天皇を創作して、応神崩御後の大山守皇子の反乱の話とそっくりな話を神武崩御後にも創作して、よくある話として誤魔化したのです。詳しくは「血塗られた女帝の秘密」を参照して下さい。

天武天皇崩御後に即位したのは宗形天皇(高市皇子)だと分かりましたから、持統天皇は架空の女帝です。天武天皇の皇子たちを抑えて鵜野の孫の軽皇子(早逝した草壁皇子の御子なので正式には皇子ではなく王)の文武天皇即位を正当化するために日本書紀ではアマテラス女神の高天原神話を創作し、ついでに皇后が即位する前例として推古・皇極(斉明)の二人の女帝も創作して史実を隠したのです。生前の大海人皇子(天武天皇)に壬申の乱のきっかけを鵜野が促すほど、あらゆる場面で親密なおしどり夫婦ということに設定したのも、すべて創作だと分かります。鵜野讃良は不比等の私邸を宮としたという噂話が平安時代の私撰歴史書「扶桑略記」にも見られますので、当時の朝廷の人々の間では公然の秘密だったことが分かります。
(2024.6.1 青字追加)

(注4)不比等の死後、神亀二年(725年)、現在の小椋山宇佐神宮で八幡大神が祀られるまでに霊亀二年(716年)に小山田社に遷して祀られています。八幡大神は表向きは応神天皇としていますが、本当はその父である大国主久々遅彦を隠すためでした。卑弥呼は比売大神として隠されました。詳しくは、こちらでどうぞ。
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)


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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)中国神話は日本人の神話だった?

2024-05-31 17:02:50 | 古代史
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#2022-08-27 14:43:02に記事にしましたが、付録のリンクが切れていたので修理しました。中国というのは中共のことではないのです。「なかつくに」つまり「ナーガ(龍蛇神)の国日本」のことなのですよ(^_-)-☆。中国神話もシナ人のものではなく、日本人の神話なのですよ。シナ人の神話は三皇五帝神話の後で作られた道教の天帝神話ですのでネ!(^^♪。よろしければ、またご覧ください(;^ω^)

7.記紀と日本人の信仰の謎
⑤中国神話は日本人の神話だった?


YouTubeで非常にいい中国神話の動画を見つけましたので、まず見ていただくとこれからの話が理解しやすくなります。この前編もあって、後で見ていただくのも良いかと思います。

さて、中国神話で、上の動画の前編で説明されている天地を作った盤古という神様がいるのですが、Wiki「盤古」によれば、道教が組み込まれた春秋時代以降で「内容も様々に変容している。そのため他の中国神話同様に元来どのように語られていたかには不明確な点がある。」ということです。道教の始祖は春秋時代の哲学者で、諸氏百家の一つ道家の基礎を築いた老子とされています。天と地を分けた盤古の死後に右目や左目から太陽や月が、体の他の部位から万物が生まれたという話があり、日本神話のイザナギ・イザナミの国生み・神生みでこの話が使われています。道教が作られたときに天地開闢の神である盤古が語られるようになったと考えられます(注1)。

人類を創造した最初の神様は人首蛇身あるいは人面蛇体の伏羲と女媧と考えられています。三柱の神の王を三皇(天皇・地皇・泰皇または人皇)と呼んでおり、筆頭の天皇は伏羲とされています。wiki「伏羲」によれば「伏羲と女媧は兄妹であり、大洪水が起きたときに二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったという伝説が中国大陸に広く残されている。類似の説話は東南アジアや沖縄にも多数ある。」という洪水伝説があります。



伏羲は天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代えて書契(文字)をつくり、蜘蛛の巣に倣って網(鳥網・魚網)を発明し、また魚釣りを教えたとされる[2]。」とあり、古代世界で最初にこのような文化を創造した神とされています。泰皇(人皇)とされる女媧は泥をこねて人類を作ったという伝説がある女神です。黄土から貴人を作り、後は縄で泥をはね上げてたくさんの凡人を作ったとされていますから、歴代中国王朝は黄色を高貴な色と考えています。道教の影響を受けている伝説のようです。

伏羲と女媧は通説では現代中国の少数民族のひとつである苗(ミャオ/モン)族に残っている洪水伝承から、彼らが信奉した蛇神と言われていますが、後で述べますが分子人類学などから考察すると違うと考えています。

地皇とされる神農は人々に医療と農耕の術を教えた神です。伏羲が没した後に人間の王の初代炎帝となったとされて、市場を開き、民衆を呼びよせ交易を教えたとあります。神農の一族炎帝は八代続いて五百年以上治めた後に五人の聖人君主である五帝の時代になります。司馬遷によって編纂された中国最古の正史「史記 五帝本紀」では黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・ 嚳(こく) ・堯(ぎょう)・ 舜(しゅん)の五人です。

最初の黄帝に対して反乱を起こした神農の末裔の蚩尤(しゆう)という邪悪な神が現れます。石や鉄まで食べる貪欲・凶暴で、獣身で銅の頭に鉄の額を持つという怪物です。「戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢など優れた武器を発明、あるいはそれらに金属を用いるようになったのは蚩尤であると伝承されて」おり、蚩尤に味方した勇敢で戦の上手い九黎族(きゅうれいぞく)が敗退して逃れて悪神のひとつである三苗(さんびょう)となったとあるので、最近になって苗(ミャオ/モン)族の始祖と言われるようになったとwiki「蚩尤」にあります。「黄帝(堯であるとも)は敵討ちを心配して苗民を皆殺しにしているが、この南方の民を根絶やしにできず、その後、三苗人は歴代の王を執拗に悩ます手強い敵となった[2][10]。」ともあります。

ここで、神話と中国の新石器文化の関係を調べるために、文化の年代や発祥地と古人骨のY染色体DNAの解析結果などから推定したハプログループを図に示します。



日本列島では縄文前期初頭にあたる紀元前5000年頃から黄河中・上流域に仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)が見られます。この人々は粟や麦・米(陸稲)を作って生活しており、余剰の穀物を格納する高床式住宅も見られ、豚や犬、羊、山羊、牛などの動物を家畜としながら、食用の肉の大部分は狩猟や漁業で得ていたとあります。驚くことに、古人骨から調べたY染色体DNAのハプログループはウラル系民族に高頻度で見られる遼河文明の人々と同じNでした。恐らく、青森県三内丸山遺跡(紀元前3900年頃-前2200)を造ったと考えられている遼河人N1と同じ人々と思われます。つまり、すでに紀元前5000年から遼河人は東西に移動していた模様です。ですから前回(その18)で見た縄文中期(紀元前3500)からはじまる蛇信仰も遼河人が列島中部に来て縄文人に広めたと考えてもよさそうです。仰韶文化の遺跡からは半坡文字と呼ばれる文字に近い記号も発見されている。とありますから、驚きます(^_-)-☆(2020.8.28 赤字修正・追加)

長江中流域(中国重慶市、湖北省から湖南省の三峡周辺、両湖平原)に存在した大渓文化(だいけいぶんか、紀元前5000年頃 - 紀元前3000年頃)の「遺骨からモン・ミエン語族に関連するY染色体ハプログループO-M7が高頻度で発見されており、モン・ミエン系民族が担い手であったと考えられる[1]。」とあります。つまり苗(ミャオ/モン)族はシナ人系O2(旧O3)から分かれた人々ということですから、後でまた述べますが、やはり伏羲・女媧の子孫ではないです。

同じ時期つまり紀元前5000年頃の長江下流域の河姆渡遺跡(かぼといせき)で稲が栽培されていたことが分かり(河姆渡文化は紀元前3400年まで)、ここに居住していたハプログループO1b2から分かれたO-47zの人々が、紀元前11世紀に韓半島南部、前10世紀に日本列島に水田稲作を伝えた倭人です。倭人が作ったとみられる印文土器が日本の五島列島で出土しています。(注2)

紀元前3200に長江下流の浙江省杭州市で稲作都市文明が興っています。「宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出土した良渚遺跡は、初期の都市文明であると評価され、2019年に「良渚古城遺跡」の名で世界遺産に登録された。」とあります’(wiki「良渚文化(りょうしょぶんか)」)。

この良渚遺跡が紀元前2200年頃に突然洪水に見舞われて全滅しています。wiki「日本人」〔日本人および周辺(日本からおよそ5000km以内〕の諸民族のY染色体ハプログループの割合)によれば、ここの人々の多くは台湾方面に移住し、現在の台湾原住民(89.6%がO1a1)となっています。その他フィリピン(42.5%)やインドネシア西部(20.0%)へもかなり移住した模様ですし、遠くマダガスカルにも到着したようですので高度な航海技術を持つ舟の民だったと中田力氏が「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書 2014 (p.63)」で述べています。

中田氏はまた、その北方に逃げた人々が黄河中流域で二里頭文化(紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃)を担ったとしています。

紀元前1800年から前1500年、河南省洛陽市偃師(えんし)区の二里頭遺跡から宮城跡や青銅器などが発見されました。「史記」に記された最古の王朝である夏王朝の発見でした

禹は黄河の治水事業に成功したので、五帝最後の舜より王位が禅譲されたとなっています。wiki「禹」によれば「禹」の字は、古代文字の「九」と「虫」とを合わせた文字である。「九」は、伸ばした手の象形。「虫」は、もともと蛇や竜などの爬虫類の意味で、雄の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雄の竜を掴むの象形で、洪水と治水の神話の神と伝えられる「伏羲と女媧」を意味する。[17]とありますから、禹は長江下流の洪水で破壊された良渚遺跡の人々と同じハプロタイプO1aと考えられます。「王権を筆頭に統制のとれた軍事形態に近いものを獲得していた」として、「原始夏族」と中田氏が名付けています(上掲書 pp.61-71)。



「史記」に記された夏王朝の版図が中国の九州(注3)まで及んでいるのに対して、二里頭文化は黄河中流域だけと狭いので、夏王朝ではないと主張する研究者もいるようですが、夏王朝を興した禹たちが、宮殿とそれを取り巻く城郭都市を造る高度な技術を持っていた、かつての長江文明の良渚文化を担った人々の末裔であれば、二里頭遺跡で広大な宮城造営や黄河の治水工事を成功させる素地があったと考えられます。そのため禹の一族の出身地である長江流域も夏王朝の版図と見なしたということかも知れません。ですから、二里頭遺跡は夏王朝の遺跡と考えていいと思います。

そして五帝本紀にあるような堯・ 舜・禹の王位の禅譲についても、すでに黄河中流域に見られた堯が率いる龍山文化の人々はO2であり、黄河下流域の 舜が率いる山東龍山文化を担った同じハプロタイプのO1b2*(O1b2から倭人系O-47zを除いた)の人々に譲り、さらに、強力な軍事力の原始夏族O1aを率いた禹(う)に中原(黄河中流域)を戦争せずに明け渡した史実を表していると中田氏が説明されています(上掲書 p.69)。

しかしながら龍山文化は神話の五帝の時代のものではないかと考えます。人々が平等に暮らすことができた母系社会から父系社会への変化は異民族との抗争などによって軍事技術が発達することが要因と考えると、邪悪な神蚩尤が黄帝に挑戦し、南方に敗退して更なる敵となった三苗人O2が生まれる伝説は、龍山文化の人々の記憶に残ったものだと考えられます。ということは黄河中流域の龍山文化の人々は中田氏が主張されるO2ではなく、黄河下流域の山東半島付近の人々と同じO1b2*と考える方が自然です(注4)。(2022.8.28 赤字で訂正)

長江中流域に紀元前3000年頃-紀元前2600年頃にかけて存在した屈家嶺文化(くつかりょうぶんか)(注5)を継承した石家河文化(せっかがぶんか、紀元前2500-前2000)が長江流域最初の都市文化です。環濠集落から発展して大規模な城郭都市が築かれており、原始的な都城を構成したことにより屈家嶺文化と区別されている。文化的には屈家嶺文化の特徴的な遺物である彩色紡錘車を継承し、また灰陶などの陶器や陶製の人物像(塑像)、ヒスイの玉製品は更に発達した製法が生み出されている。また銅鉱石や銅製品も遺跡より出土している。とあります。つまり王権が生まれている父系社会です。これが龍山文化のO1b2*の人々の記憶に残った、敵対した蚩尤の配下の九黎族の三苗人(シナ人系O2)と考えられます。(2022.8.28 赤字追加変更)

「史記」に顓頊が禹の祖父だという伝承が記されていますので、そういう血の繋がりもあるので舜が禹に禅譲したという理由づけを行ってはいますが、禹王の強力な軍事力のために龍山文化の人々O1b2*は戦争をしなかったと考えるならば、この伝承は無視して、黄帝から五代の五帝もすべてO1b2*の人々と考えていいと思います。ということであれば、黄帝が倒した蚩尤も、蚩尤の祖先である神農炎帝もO2の人々と考えられます。ですから五帝の時代は、後にO1aの人々の夏王朝(紀元前2070年? - 紀元前1600年?)を倒した殷(商)王朝(紀元前1600年? - 紀元前1046年?)の先祖となる龍山文化の人々(O1b2*)の時代だったと考えられます。O1b2*を分かりやすいので殷(商)人系と名付けましたが、五帝系あるいは龍山人系としても良かったかもしれませんね(^_-)-☆(2022.8.28 赤字追加)

さらに夏王朝の遺族である周の武王が殷(商)王朝を倒して周王朝(西周:紀元前1046年 - 紀元前771年)を建てたということです。

すでに述べたように日本は古の倭の奴国ですので、初代奴国王天御中主(あめのみなかぬし)は周の先王古公亶父(ここうたんぽ、武王の曾祖父、呉の太伯は長男)の子孫の呉の王族です。呉王は長江河口や江南などの倭人を統治していましたので、紀元前473年に呉が滅んで倭人の助けを借りて半島南部から福岡市吉武高木遺跡に落ち着いたことから日本の歴史が始まりました(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)(2022.8.30 赤字追加)

古公亶父は、王朝を建てた「禹」の子孫ということになります。つまり倭の奴国(なかつくに)の王も禹王の子孫で間違いないのです。だから、(その15)で述べたとおり、日本人は今まで藤原不比等によって藤原氏に都合の良いデタラメな日本神話を押し付けられていますが、上で長々と述べた中国神話こそが龍蛇神(ナーガ)を信奉する倭人の中つ国神話だったということです。龍蛇神(ナーガ)は、前回(その18)で述べた日本列島の先住民縄文人も蛇信仰でしたから受け入れられています。第十七代奴国王伊弉諾尊が縄文海人族の王族の伊弉冉姫を娶って生まれたスサノヲとニギハヤヒの兄弟が天皇の皇祖神ということなのです(「天皇陛下はニギハヤヒ大王の男系男子?」参照)。

【関係記事】
日本における禹王信仰の現存形態及びその現代的価値 : 日中間の歴史的文化的関係の一案例

兎王の治水 日本における133カ所の「兎王の碑」・蹴 裂 伝 説
日本人が禹王を崇拝する理由は大きく二つあり、一つは日本の皇室が禹王を尊敬したこと、もう一つは日本の自然環境と社会心理的な側面だ。王敏「文化の交差点 【20-09】禹王と日本人」2020年7月21日 より)

日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

(左クリックで拡大)

(注1)Wiki「盤古」によれば「少なくとも文献による考察によれば盤古の存在が考え出されたのは、前述のごとく呉の時代(3世紀)であり、『史記』(前漢・紀元前1世紀)や『風俗通義』(後漢・2世紀)に記述がある伏羲・女媧など三皇五帝が考え出された時期よりも後の時代ということになる。」とありますので、想像上の神と考えていいと思います。

(注2)分かれたO-47zの人々、つまり古くは長江河口の浙江省東部寧波市から舟山市で河姆渡文化、新しくは上海市で馬橋文化、南京市で湖熟文化を担った倭人でしたが、彼らは水田稲作だけでなく漁労も行う人々でしたので紀元前11世紀までには半島南部に展開しており、紀元前10世紀に半島南部から佐賀県唐津市菜畑遺跡に水田稲作技術をもたらしたと考えられます(「【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?」参照)。(2022.8.30 赤字追加修正)

(注3)wiki「九州(中国)」によれば、『尚書』禹貢による九州は、冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州を指した。ということで以下の図のとおりです。


(注4)wiki「龍山文化」によれば龍山文化(紀元前3000年ー前2000年頃)は高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さが特徴とあります。後にこの高温技術が青銅器時代である殷(商)王朝の成立につながるものです。龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。また土を突き固めた城壁や堀が出土しており、特に山西省襄汾県の陶寺郷の南で発見された陝西龍山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は龍山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった農業や手工業の発達も特徴である。陝西省の渭河周辺では農業と牧畜業が仰韶文化の時期に比べ大きく発展している。コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始も確認されている。

動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まっており、宗教も出現していたとみられる。農業などの発達により、社会の生産に余剰が生まれ、私有財産が出現し社会の階層化が進み、父権制社会や階級社会が誕生した。とあるので、龍山文化が出現する紀元前3000年くらいまでは概ね母系社会だったようです。

(注5)屈家嶺遺跡では稲を栽培した痕跡が発見されている。また動物ではニワトリやイヌ、ブタ、ヤギなどの遺留物が発見されている。また十か所ほどの貯蔵用の穴には魚が蓄えられていた跡があった。墓からは世界的にも珍しい甕棺墓が発掘されている。黄河流域の龍山文化とは出土する陶器に共通点もあり、墳墓の副葬品からは黒陶、特に器の厚さが非常に薄い卵殻陶が多く出土した。陶器の形状では、大渓文化で発見される圏足器(大きく高い脚部をもつ器)が多く見られるが、鼎もそれより多く発見される。また建材として、焼いた土の塊を多く使っており、後のレンガの発達をうかがわせるwiki「屈家嶺遺跡」)。


いやあ、今回は特に時間がかかり、申し訳ありませんでした。思い違い等お気づきの点は遠慮なくお教えください。
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2024-05-30 18:10:36 | 古代史
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#2021-02-25 14:47:24に記事にしましたが、その後分かったことも加えて再掲します。よろしければお付き合いください(#^.^#)

「国学の四大人(しうし)」の一人とされる本居宣長は、賀茂真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。とあります(Wiki[本居宣長」より)。

宮廷で「日本書紀」を講義する学者の副読本とされたそうですが、「日本書紀」よりも先に完成したとされる「古事記」は、実はその序文にそうあるだけで、今の「古事記」がそのまま古くからあった証拠はないのです。序文は日本書紀を講義する九世紀の学者「多人長(おおのひとなが)」が書いたもので、偽書だと言われています。その根拠は明らかで、主なものを簡単にあげると以下のようです。

①天武天皇の勅命で書かれたことが全く記録されていない。
②古事記完成時の記録もない。
③突然、九世紀の学者がその存在を言い出した。
④姓(かばね)のない稗田阿礼や、歴史学者でもない太安万侶に天皇が命じることはあり得ない。

しかし、特に「日本書紀」にないオオクニヌシの神話などがあり、内容的にはすでに存在していたと思われる原古事記から引用した部分があるようです。また、多人長の目的は、低くされた自分の出自の主張と言われてますが(岡田英弘「倭国の時代」(ちくま文庫)2009,p.210)、日本書紀の歴史改ざんをささやかに正すためだったと考えています。

古事記がどうして日本人に人気があるのかは、いくつも異説をならべて大筋が読みにくい神話を提供した「日本書紀」に比べて割合筋の通った話になっているからでしょう。古代人の神道の考え方も理解しやすくなっていますから。

実は、記紀神話が今の形で日本人に親しまれるようになったのは、江戸時代末期、幕末に尊王攘夷の思想が起こり、明治時代になって政府が西洋列強に対抗するために国民教育が行われてからです。

ですから現代の日本国民が知っている記紀神話は、非常に新しいものなのです。(2024.5.30 青字追加)

それまでは古事記は人々にほとんど知られていませんし、720年に成立した「日本書紀」も平安時代までの宮廷貴族や僧侶などの間で知られていた程度です。721年(養老5年)に最初の日本紀講筵(にほんぎこうえん、講義・研究会)が行われて、965年(康保2年)までに計7回行われています。812年(弘仁3年)の講師が多人長でした。講筵に合わせて創作したものだと考えられます。

民間では日本書紀の神話に神仏習合や修験道・密教・道教などの影響を受けた中世日本紀と呼ばれる記紀神話とは全く異なる神話が主流でした。
(2024.5.30 青字追加)

ですからそれまでの庶民は「日本書紀」の詳しい内容はあまり知らなかったと思いますが、室町時代あたりまで日本建国時代の主役が誰であったのかは、神楽や民間伝承によってある程度知られていたと思います。正史「日本書紀」の神話を目にした貴族も史実ではない藤原氏の創った政治文書だとが分かっていたようです。しかし、真っ向から正史に反論することは権力者と敵対することになるので一族の運命を賭けることになるので、「長い物には巻かれろ」という話になっています。つまり、古事記と同様に、藤原氏に悟られないようにして、表向きは正史を踏襲し、真相に導く異伝を書き残したのです。古事記と同様に天地開闢から推古天皇までの歴史全十巻の物部氏に関わる事柄を多く載せた歴史書が先代旧事本紀です。著者は不明ですが、868年に編纂された『令集解』に引用されているとして、それ以前に成立していたとされているようです。(2024.5.30 青字追加)

大和に国譲りした出雲のオオクニヌシなどヤマトに恨みをもって亡くなった神々に対しては、朝廷も庶民も祟られないように拝んでいました。特に天変地異や疫病などが起こると朝廷は勅使を立ててゆかりの神社で、神階を上げ、食封などを捧げて丁重にお祀りしています。庶民は村の守り神などとして道祖神や庚申塔などを祀っていましたが、祭神はサルタヒコとそのペアであるアメノウズメです。その正体は大国主久々遅彦であり、その妃の台与(トヨ)であることはすでに述べましたが、「記紀神話」ではさらに武内宿禰・神功皇后として隠されました(*^。^*)

「記紀神話」の神々は仏教思想の導入によって人間を救済しようとする仏や菩薩がいろいろな姿であらわれた化身として捉えられるようになり(神仏習合),元々の神話から大きく変貌した説話が伝承として伝えられるようになっていきます。皇祖神である天照大御神についても、伊勢神宮の神官と密教の僧侶が関係して伊勢神道という中世独特の神話学が創られたと言われています(斎藤英喜「塗り替えられた日本神話」講談社現代新書 2006、pp.104-105)

例えば、古代から南北朝時代にかけて、未婚の皇女(内親王や女王)が巫女として伊勢神宮や賀茂神社に奉仕していました。皇祖神天照大御神を伊勢神宮に導いたヤマトヒメが伊勢斎宮の始祖となった経緯が「日本書紀」に書かれています。

しかし、斎宮のもとに、アマテラスが夜な夜な通ってきて、ウロコを寝所に残していくという、蛇体のアマテラスの奇妙な言い伝えがあることを十三世紀後半に伊勢神宮を訪れた僧侶通海が耳にしたと、その著書「大神宮参詣記」にあります(上掲書 pp.129-130)。

平安時代後期の女流日記「更級日記」に内侍所の老巫女から聞いた神鏡にまつわる蛇体のアマテラスの神話が残されています。これが平安貴族女性の魂を救済する神となり、その身に仏を宿していく中世神話の始まりを告げていたとあります(上掲書 pp.49-52)。



伊勢灌頂という蛇身のアマテラスという神格を実践的に体得する作法があり、「神体でありわれわれの心である吽(うん)字を観想する。吽(うん)字は理知一体両部不二の表示であるが、さらに「吽」字の父字である「訶(あ)」の屈曲した形態を蛇形として知覚し、それ故神の本体は蛇身であることを認識するのである。・・・そこに神の究極の姿を見出し、それと合一するという最高の神秘体験」と伊藤聡氏の「伊勢灌頂の世界」から上掲書(pp.132-133)に紹介されています。

古代では蛇神は水神で農耕神とされていますが、中世神話では神の蛇体は人々の苦しみを神が引き受けてくれているという、その正体である本地仏の垂迹(すいじゃく)した姿と考えたようです。

また、豊受大神が外宮に呼ばれたのも社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている[1]。即ち、元々は丹波の神ということになる[2]。Wiki「トヨウケビメ」にあります。

『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として羽衣伝説があり、この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)とありますので丹波の神のことです。羽衣伝説はいくつか異説がありますが、共通するのは男または老人が水浴びしていた天女の羽衣を盗ったので、返してもらうために福を授ける話です。男とは子を儲けた話もあります。すでに老人の大国主久々遅彦と若い台与の伝承だと突き止めています。

本当は怖い七福神の謎(;一_一)

ですから、皇祖神アマテラスは蛇体の男神で大国主がその正体であるとずっと考えられていたということなのです。江戸時代の学者の多くも天照男神説です。天皇家の菩提寺泉涌寺 (せんにゅうじ、京都市東山区)でも皇祖神の霊と一体となって国家の安泰と国民の安寧を祈る天皇は皇統の男系男子であって、女性天皇は認知していなかったので江戸時代の歴代天皇の肖像画に二人の女性天皇のものは掲げなかったようです(Wiki「女性天皇」2021-02-25より)。

幕末になって平田篤胤の復古神道の考え方が尊王攘夷運動に結びつきます。当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い[5]。Wiki「平田篤胤」にあります。

これにより明治政府によって神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達[2]の総称)が全国的に公的に行われました。王政復古に際して皇国思想を唱道した国学者、特に長谷川昭道の皇道主義の思想と献策を受けて大教宣布運動が行われました(Wiki「神仏分離」より)。

神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。



神仏分離政策は、「文明化」への当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたものであり、修験道・陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動するもので、仏教界のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた[7]。

日本版の文化大革命だったと思います。戦前の記紀神話などの実証的学術研究を不敬罪としたことと共に古代史研究を百年以上遅らせる結果になった愚かな政策であったと思います。

明治革命新政権はさらに、明治四年廃藩置県後まもなく文部省を設置しました。そこで全国の教育を統轄することとなった文部省は、翌五年に「学制」を発布して近代学校制度が成立しました。その中で「記紀神話」に基づく国史が広く国民に教えられ、「教育勅語」が小学校から教えられることによりすべての日本国民の倫理観が確立されましたので、これについては大いに評価できます。

しかし大東亜戦争の敗戦後のGHQや日本の敗戦革命を陰謀した戦後利得者(真のA級戦犯)らによる日本弱体化計画によって(偽)日本国憲法の発布と共に「教育勅語」が廃止されてしまいました。その結果、日本破壊を狙う彼らの弟子の大手サヨク・マスメディアのまき散らす堕落した利己的風潮が国民にまん延しています。最近ではご皇室や各地の神社に対する崇敬も薄まり、日本の完全崩壊が危惧されます。

しかし明治政府によって日本国民に植え付けられた記紀神話に基づく皇国史観はまた、こういう時代になって日本の未来を失わせる弊害をもたらすことも古代史の研究によって明らかになってきました。(偽)日本国憲法と記紀神話を心に植え付けられた国民によって、皇位継承問題において女性天皇や女系天皇まで容認する風潮が大勢を占める状況になっています。インチキ・リベラルのサヨク勢力の狙いどおりの日本になってしまっています。YouTubeでも秋篠宮家を貶め愛子天皇を待望する風潮を作ろうとしてかなり成功していますが、彼らの目的は女系天皇の次は日本から天皇を追い出すことだと直ぐに分かります。日本国民は完全に分断されます。天皇陛下が居なくなった日本はもう日本ではありません。

皇祖神が女神アマテラスというのも史実ではありません。

藤原不比等が日本建国の歴史を隠蔽し、藤原氏に都合の良い歴史をねつ造し、

権力を維持するために創作したフェイク女神なのです!(;´Д`)


記紀は勝者藤原氏のための歴史書です。天皇の歴史書ではなかったのです!2024.5.30 赤字追加)

真の皇祖神は初代王天御中主(アメノミナカヌシ、日本の龍蛇神の始祖)から第17代王伊弉諾尊(イザナギ)とその子の第18代素戔嗚尊(スサノヲ)までの歴代奴国王です(注)。

また一度滅亡した奴国を吉備で再興し、ヤマト王権の基礎を築いた本当の天照大神尊(ニギハヤヒ、イザナギ・イザナミの子でスサノヲの弟)とスサノヲの子孫の大国主久々遅彦が皇祖神なのです。

天皇陛下にはこの皇祖神の男系男子しかなれません!

未婚の皇女は斎王(巫女)となり皇祖神に奉仕するのがその役割です。

女性も皇統の男系男子ではない者も天皇にはなれません!

この認識が日本を救う唯一つの道だと思います。

女系天皇は二千年以上長く続く伝統国家日本を破壊する易姓革命なのですから!

女性天皇や女性宮家創設は日本破壊の為の布石なのです。


GHQの命令によって1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族の中から皇位継承候可能な方々に皇族復帰していただくことが、若い悠仁親王殿下のご負担を軽減し、皇位継承を安定化させて伝統国家日本を存続させる最良の策だと思います。天皇陛下やご皇族の最も重要なお仕事は(偽)日本国憲法に規定されたもの以外の日本国と国民のための宮中祭祀だと思います。

すでに徳仁皇太子殿下がご即位されたので少し古いですが、この動画の説明から家系図のPDFファイルがダウンロードできますので、どうぞ( ^)o(^ )



(注)奴国はナコクと読みます。金印の紐が蛇(ナーガ)だから分かります。地名も那珂、那賀などがありますから間違いないのです。

委奴国を伊都国(イトコク)と読むのは不正解です。委は倭のにんべんを意図的に省略する当時の慣例から書かれています。このことは以下の大発見につながりました。難升米の難も儺(おにやらい)のにんべんを省略した字だと倭国王帥(師)升の話から推理できます。難升米は師升王の孫あたりで倭国王でした。伊都国は殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む王都の名前です。奴国を滅ぼした師升王との事績の類似から付けられたものだと、難が儺だということから分かりました。
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆


【関連記事】
天皇即位の密教の儀式の正体?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その23)

平安時代後期の後三条天皇(第71代)からという説がありますが反論もあるようで、鎌倉時代の後深草天皇(第89代)から江戸時代後期まで、仏式の即位儀礼が行われています。


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天狗の正体もヤッパリ(^_-)-☆

2024-05-29 03:17:02 | 古代史
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#2021-02-16 01:31:57に記事にしましたが、関連記事をつけましたので、よろしければお付き合いください(#^.^#)

#いつもフォローしている前田よしひこ先生の以下の記事に、以前コメントしていつか記事にさせていただこうと思っていたのを思い出しました。

「迦葉山龍華院弥勒寺」参拝!

2015年(平成27年)5月3日正午頃、群馬県沼田市にある「迦葉山龍華院弥勒寺(かしょうざんりゅうげいんみろくじ)」を参拝。

巻頭の写真は、中峯堂に安置されている日本一の天狗面(顔の丈6.5m、鼻の高さ2.8m)です。

「迦葉山龍華院弥勒寺」は日本三大天狗の一つと言われています。(他は、東京都高尾山薬王院、京都府鞍馬寺)


弥勒寺で観音様を祀る? (刮目天 一(はじめ))
またいいところに行ってきましたね(*^▽^*)
弥勒菩薩を祀っていないといけないでしょう(;一_一)
この次話題にするつもりですが、宇佐神宮の神宮寺が弥勒寺です。古代史のカギを握る最重要なお寺だと考えています。上州沼田にも謎を解くカギがありそうですね。また調査したいと思います。どうもありがとうございました。(*^^)v


Wiki「天狗」によると、天狗(てんぐ)は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。とあります。また、元々天狗という語は中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。とあり図のような狗(いぬ)というより猫のような架空の生きものですね。


これが日本に来るとあの姿になってますから、どうしてなのか摩訶不思議ですよね(´ω`*)

それが先程のコメントに謎解きのカギがありましたよ。

宇佐神宮の神宮寺の御本尊弥勒菩薩は大国主の本地仏だと突き止めています。そして大国主の分身が例の鼻の長~いあの男性のシンボルの神です。

なぜ?

それは孫のような年齢の姫を妃にした老人だったからだと突き止めています。大国主の豊葦原の瑞穂の国が宇佐市安心院町佐田地区でしたが、田んぼの中に米神山に向かって立っているこしき石(いわ)がその神のシンボルです。

邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。Wiki「サルタヒコ」より)

そうです、そうです。サルタヒコは典型的な日本の天狗の容貌なのです。

それが何で中国の天狗と結びつけられたのか?

魏志倭人伝にその答えがありますよ(^_-)-☆

大国主の本名は?

はい久々遅彦です。

兵庫県豊岡市久々比神社の祭神屋船久々遅命(やふねくくちのみこと)は木の霊として棟上祭の主祭神です。

「宋史 王年代紀」の第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)の王子五十猛神(イタケル)も木の神ですから、久々遅彦の名前は首長霊信仰の考え方からイタケルの子孫が代々襲名した王の名前と推理しています。日本海沿岸部を根拠地とする縄文海人ムナカタ族を配下にして半島南部の鉄素材を入手し、狗(旧)奴国の王族に鉄製品を供給して国を復興させた狗奴国の官です。出雲・丹波王だと推理しました。

棟上祭のもう一柱の祭神が屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)ですから大国主が妃にした台与です。わずか十三歳で倭国女王に立てられましたが、実際は卑弥呼と同じ、太陽神の神託を倭王に伝える姫巫女でした。

天狗という名前は天孫・天神である狗古智卑狗から採ったからでしょう!(^_-)-☆

ひとりの人物の名前に二度も「狗」の字を当てられたのは見逃せませんね(^_-)-☆

すでに漢字が倭国に入ってきており、孟子も読む伊都国を王都とした師升の一族の倭王難升米が付けた名前だと推理しています。旧奴国も狗奴国と呼ばれ、女王卑弥呼に逆らう狗コロの奴国と貶められた名前が付けられたのだと思います。

そして大国主も荒魂(あらみたま)は人々に様々な災害をもたらす怖い、嫌な存在ですから、中国の天狗と同一視され、少し蔑まれた、そういう感情も入っているのかなと思います。

また天狗は山伏の格好をした山の神です。山伏についてはWiki「修験道」に以下のように解説されています。

修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教である[1]。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある[1]。 この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ[1]。修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語とされる[2]。

里の民にとって山伏は修行によって超人的な技を身に着けた山の神のような存在だったのでしょう。山伏は神が存在する山で過酷な修行によって人々に祟りをなす荒神の荒ぶる気を抑える術を体得します。その山の神の元締めが大山祇(オオヤマツミ)でしょう。

すでに、大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)で見たようにその正体はやはり大国主狗古智卑狗(久々遅彦)でした(^◇^)

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【大発見!】大国主命の生誕地か?

(左クリックでMyMapに移動しますのでご確認ください)


米神山で大国主に会ってきた!
霊山米神山に住む黒ヘビは大国主大神の化身ですよ(^_-)-☆

大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v


ストーンサークル 佐田京石 こしき石の謎 石藤@YouTube 8年前


佐田京石/こしき石(いわ)モノクロの写真集ですが、雰囲気がありますよ(^_-)-☆

佐田地区探訪マップ(大国主ゆかりの神社・史跡が見られます)



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「古事記」は謎ときのヒント!(^_-)-☆

2024-05-26 20:41:39 | 古代史
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#2024-05-26 08:20:06に記事にしましたが、有難いことに、Up主様からお返事をいただいたので、早速それに対するコメントをし、本記事の本文末尾に追加しました。よろしければまた、お付き合いください。(;^ω^)


とても重要な話題をありがとうございます。
「古事記」崩年干支はご説明頂いたとおり、倭の五王の比定に希望を与えるものです。
この事実は「古事記」という史書の性格をはっきり示す一例です。つまり、「日本書紀」が隠した史実をそれとなく暴露するのが目的なのです。「古事記」は様々な場面でこの役割を果たしていることが分かります。

例えば、高天原を追放されたスサノヲですが、八百万の神によって手足の爪を剥がされ、をむしられ、財産を没収されたことが記されています。スサノヲが宋史王年代紀第18代奴国王であることを信じれば、107年に後漢安帝に160人の生口を献上するために朝貢した倭国王帥升の事績と考え合わせると、スサノヲが帥升によって金印の在りかを白状させるために拷問されて、結局見つからず殺され、奴国が滅んだということが推理できます。これによって倭国大乱の原因も判明しますがここでは省略します(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。(2024.5.30 赤字訂正)



また、神武東征神話でナガスネヒコをトビヒコと古事記は暴露しています。トビは最初に邪馬台国宇佐説を学説とされた富来隆先生が指摘していますが(富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-」<抜粋>参照 )、ヘビを意味し、出雲の富神社などからわかるとおり出雲王国と関連から、大国主の別名だと分かります。

また、出雲国風土記の国引きの神八束水臣津野命を淤美豆奴神(おみづぬのかみ)として、スサノヲの子孫と分かるようにし、淤美豆奴神の子を天之冬衣神としています。日向三代の神話に登場するホホデミが「古事記」では天津日高日子穂穂手見命とし、天之冬衣神の子が大国主命であることが示され、神話の日向三代が出雲・丹後王国三代の史実を隠すものであることが分かりました(詳細は「消された出雲・丹後王国の謎!(その1)(その2)」参照)。



さらに、大国主神話は「古事記」独自のものです。神武天皇が本当の初代応神天皇を隠すための虚像で、崇神紀の大国主大神の子大田田根子が、大神の祟りを鎮めるために探し出されてヤマト王権が成立した史実を示唆しています。神武天皇が先に天孫降臨していたニギハヤヒによってナガスネヒコ(トビヒコ=大国主)が討たれて即位できたという神話は、大国主がニギハヤヒの子孫(九州遠征した景行天皇とされた尾張王建稲種命、熱田神宮祭神でヤマトタケルのモデル)によって討たれた史実を誤魔化したものなのです。大国主は大田田根子とされた応神天皇の本当の父で日本建国の主役であることを大国主神話を挿入することによってそれとなく主張しているのです。

このような「日本書紀」の歴史改ざんを暴露するのが「古事記」の役割だと気づけば、倭の五王が日本建国過程の史実と合わせて、「古事記」崩年干支や朝貢年などから推理できました。詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)(その3)」にありますので、よろしければご参照ください。長々とお邪魔しました。


@J-history
詳細なコメントをありがとうございます。
ただ、この動画では、倭の五王の比定に『古事記』崩年干支を用いることができないことをまとめています。
引き続きよろしくお願いします。


刮目天
​ @J-history さん いつものように不躾な長いコメントにお返事までいただき恐縮です。おっしゃる趣旨は理解していますが、これは雄略天皇の宝算を124年とされていることから兄の安康天皇よりも先に生まれたという矛盾が生じるからです。

一運戻して64歳とすれば426年が生年となり、安康天皇が422年生まれですから矛盾は生じません。

これは、藤原氏が苦心して倭の五王を隠ぺいしたのを暴露するものだと藤原氏に気づかれてしまうので雄略天皇を124歳没にしたのだと考えています。同様に初代と考えている応神天皇の宝算130歳も同じ理由で、70歳が正しいと見ています。

これによって不比等が最も隠したかった二代目宇治天皇(菟道稚郎子)と四代目住吉天皇(仲皇子)の存在が明らかになります。
日本書紀は履中天皇を長兄であることを強調したのですが、仲皇子は本当はイラツコの妹八田皇女と仁徳天皇の皇子と考えると仲皇子が履中天皇よりも34歳も年上ですので、履中天皇が9歳・弟反正天皇が生まれたばかりの歳で仲皇子を暗殺したあり得ない話になります。

母の出自である宗形氏が低い身分なので即位できなかったとした高市皇子の嘘がばれるので、実はムナカタ族である和邇氏腹の宇治天皇も住吉天皇も隠す必要があったからです。それは天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼であることからバレてしまいました。和邇氏というのも藤原氏によるねつ造の可能性が高いです。詳しくは拙ブログに図解していますのでよろしければご覧ください。どうも失礼しました。



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【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)
記紀で景行天皇とされた尾張王建稲種命が苦難の末に、父ヲトヨノミコトの仇討ちを成功させて日本が建国されたのです(^_-)-☆。


考古学の成果から日本建国は3世紀後半の出来事だったのですが、日本書紀はそれを誤魔化すために崇神天皇から応神天皇即位までの約350年の事績に引き延ばしていますよ( ^)o(^ )

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆ 
記紀神話は宋史王年代紀によって史実を誤魔化すためだったことが分かります(^_-)-☆





最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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