ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

日本史に於いて6月2日といえば、何といっても有名なのが 『本能寺の変』。(↓)
 

光秀の裏切りにより天下統一を前に命を落とした織田信長の命日にあたりますが、今日は彼と運命を共にした小姓の

 

 森 蘭丸


にスポットを当ててみます。

蘭丸は1565(永禄8)年に織田信長の家臣・森可成の三男(5人兄弟)として現在の愛知県一宮市に生まれました。

(※一般的に 『蘭丸』 の名で知られますが、本来の名は 『成利』 といわれ、また信長公記では 『森乱』 と記されており、〝蘭〟ではなく〝乱〟が正しいとも。)


そして8歳の時に弟らと共に信長に小姓として召し抱えられ、その4年後には500石の知行を与えられると、以後信長の側近・秘書役として終生行動を共にすることに。

17歳の頃には美濃金山城主に任ぜられましたが、実質的な差配は城代が務め、彼自身は信長の傍を離れませんでした。

というよりは、信長が彼を手放さなかった・・・と言った方が正確かも。

当時の武将は衆道(同性愛)を嗜むのが普通でしたから、おそらく信長と蘭丸もそういう関係にあったのでしょう。

蘭丸がゲーム等でジャニーズ系の美男子キャラとなっているのも、その辺が根拠になっているのかも。


そして1582(天正10)年6月2日に起きた本能寺の変により、蘭丸は光秀配下の安田国継の刃にかかり弱冠17歳で絶命。
(※死に至る経緯については他説あり)

同時に弟の四男・坊丸、五男・力丸もここで最期を迎えました。


岐阜県可児市にある森家の菩提寺・可成寺には三兄弟の墓が並んで建てられています。(


   

         左から坊丸・蘭丸・力丸

 

さてこの蘭丸、単に美少年だった(?)だけでなく秘書役としての事務処理能力・気配りもかなり優れていたそうな。

伝えられているエピソードの中から抜粋すると・・・

◆信長から隣の部屋の障子を閉めるよう命じられた蘭丸が行ってみると、開いていませんでした・・・が、蘭丸は敢えて自ら開けてから「ピシャッ」と音を出して閉めたのです。
そのことについて「なぜそうしたのじゃ?」と怪訝に思った信長から問われた蘭丸は「実際には閉まっていたと周囲の者に気付かれたら、開いていたと申された殿が面目が立ちませぬ故・・・」と答えたとか。

◆ある僧侶が信長に謁見する際、ミカンを山のように献上・・・それを運ぼうとした蘭丸を心配した
信長が「危ないから止めよ」と言った途端彼は転倒し、ミカンは部屋中にゴロゴロ・・・。
「それみたことか」と信長が呆れたのですが、翌日周囲の者共から「恥をかいたな。」と言われた蘭丸は「いや、ちゃんと運べば私を心配して下さった殿の面目を潰す故、わざとこけ申した。」と応え、逆に周囲は感心させられたそうな。


多少の脚色はあったにせよ、ティーンエージャーとは思えぬ心配りには驚くばかり。

信長が諸大名に対し、「我が自慢は、一に白斑の鷹、二に青の鳥、そして三に蘭丸」と述べたのは、彼が主君にいかに信頼されていたかを伺わせます。

もっとも、鳥類の後ってのはどうかとは思いますが。😅

しかしこれだけ気配りができ、頭の回転が速い秘書が1人いてくれたら・・・と思う社長さん、きっと多いと思いますョ。

あらためて戦国時代屈指の小姓・蘭丸の冥福をお祈り致します。



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毎朝お出かけ前に殆どの方がTVやPCで確認する情報・・・といえば、

 天気予報

 

これが日本で初めて発表されたのが、今からちょうど140年前の今日でした。

 

東京府内の測量をするため、当時の明治政府がイギリス人技師を招聘しましたが、その技師の一人・ジョイネルが気象観測の重要性を政府に提案。

 

政府はそれを受け入れ、気象台の建設を決定。 

 

もう一人の技師・マクビーンが一旦イギリスに帰国、15ヶ月かけて観測機器やイタリア製地震計を入手し日本に持ち帰ります。

 

そして1875(明治8)年5月、内務省地理寮構内(※現在の港区虎ノ門、ホテルオークラ付近)に観測機器を設置して気象台とし、翌6月1日から観測を開始。

 

(これを記念して今日は『気象記念日』に制定されています。)

 

当初はイギリス人技師が地震観測と1日3回の気象観測を行い、やがて日本人が彼の伝習生となって技術を習得。

   

          明治初期の気象台

 

そして気象台設置から9年後の1884(明治17)年6月1日、日本初の天気予報が発表されたのです。

 

同日午前6時に発表された記念すべき初予報は、こちら。

 

〝全国一般風ノ向キ定リナシ 天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ〟

 

全国一律の天気予報ですから致し方ないでしょうが、何というアバウトな予報・・・というか、これならハズレなさそう。😅

 

その後の気象観測技術は日進月歩。


私はゴルフに出かける際ネットで天候をチェックしますが、今は気象衛星の利用等によりゴルフ場毎に細かい予報が出されます。

 

しかしその陰には、1895(明治28)年の野中夫妻による命がけの富士山頂気象観測(↓)や、1964年の富士山レーダー設置など、数多くの人々の血が滲むような努力がありました。

 

 

私たちは普段、予報が外れると「雨が降るなんて言わなかったのに。」なんてついつい腹が立ったりしますが、先人の努力と犠牲を思えば決して口にできない台詞だと思います。

 

さて、普段何気なく見聞きしている天気予報ですが、意外と知らないのが用語の厳密な意味。

 

例えば、晴れ・曇り・雨の定義をご存知ですか?

 

正解は以下の通り。

 

◇晴 れ・・・空全体に対して、雲の占める面積が2割以上9割

       未満の状態。

◇曇 り ・・・空の9割以上が雲に覆われている状態。

◇ 雨  ・・・直径0.5mm以上の水滴が降っている状態。

 

意外と晴れの範囲って広いんてすねェ。

 

それから、これも普段あまり意識せず聞き流してしまうのが、時々と一時の違い。 これは、

 

◆時々雨・・・雨が断続的に降り、その降雨時間が予報期間の

                   1/2未満。

◆一時雨・・・雨が連続的に降り、その降雨時間が予報期間の

                   1/4未満。

なんですって。

 

あっ、そうそう・・・天気予報に関して、私には昔から気になる言い伝え(?)があるんです。

 

〝猫が顔を洗うと、雨が降る〟

 

猫を飼っているブロガーの皆さん、コレ当たってますか?銀ネコ


 

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私のような昭和世代の方なら、タイトルだけで今日の主役が誰かはお分かりでしょう。
 

そう、1972(昭和47)年に日本レコード大賞を受賞した実力派歌手
 

   尾崎 紀世彦 さん

 今日は、彼の命日・十三回忌にあたります。         

 

      

 

映画 『ウルブァリン』 の主役ヒュー・ジャックマンばりのもみあげがトレード・マークだった尾崎(本名同じ)さんは、父方の祖父がイギリス人というクォーター。

1943(昭和18)年、父親がクラシック・ダンサーで母親が日劇ダンシング・チームの一期生という家庭に3人兄弟の次男として生まれました。

子供の頃からFENでジャズやカントリー・ミュージックに慣れ親しんでいた尾崎さんは、13歳の時にウクレレを買ってもらうと、同級生6人とハワイアンバンドを結成。 

 

我流の練習だったものの、箱根のホテル小涌園のオーディションに合格。 

 

そのバンドはメンバーの学業の関係で止む無く解散したものの、16歳でザ・ワンダースを結成するとNHKやTBSの歌番組に出演。 

 

『ウルトラセブン』 の主題歌や挿入歌も担当。 

歌中の「セブン」の一部は、尾崎さんの声なのだとか。 

 

そして彼の歌唱力に目を付けた日音の村上司プロデューサー(※後に同社々長・会長)に口説かれて、1970(昭和45)年にソロデビュー。 

 

その直後交通事故に巻き込まれて4ヶ月の入院生活を送ったものの、翌年にリリースした『また逢う日まで』が大ヒット!

 

同年のレコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞し、一気に一流歌手の仲間入り。 

 

その後も『二人は若かった』、あるいは映画音楽『ゴッドファーザー・愛のテーマ』のカバー曲で更に人気を博しました。

 

レパートリーの広さは、まさに歌唱力の証・・・美声を維持するために、30年以上禁煙するほどストイックだったとか。

 

1987年には、アサヒビールのイメージソング『サマー・ラブ』がヒットし、21世紀に入っても定期的にコンサートを行うなど、息の長い活動を続けていた尾崎さんを胃がんが襲ったのが、2010年のこと。  

 

      

 

公演をキャンセルし、マネージャーも解雇して所在が分からなくなり、女性誌が失踪したと報じて騒ぎになったことも。 

 

本人はその報道をテレビで見ながら、「オレはここにいるョ」と苦笑いしていたそうですが・・・。 

 

やがてがん細胞は肝臓・肺にも転移し、2012(平成24)年5月31日に尾崎さんは69歳で帰らぬ人となりました。

 

迎合することが嫌いで時には先輩歌手にも意見したという、圧倒的な声量を誇った一流歌手のご冥福を、あの永遠のヒット曲を聴きながらお祈り致しましょう。笑3

 

 

 

 

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今日・5月30日は、おそらく世界的に最もその名を知られた日本軍人であり、現在でも Admiral Togo と呼ばれ、各国の軍人から尊敬されている

 

 東郷 平八郎 元帥海軍大将

 

の命日・没後90周年にあたります。

 

     

 

東郷元帥は1848年に薩摩藩士・東郷実友の四男として現在の鹿児島市で生まれました。
 

14歳で元服、19歳で分家独立すると薩摩藩士として薩英戦争に従軍、以後戊辰戦争でも各地の戦闘に参加、若い時分から軍人として活躍します。

 

彼の軍才を見出した西郷隆盛によって希望するイギリス留学を認められ、この時に学んだ国際法に基づき日清戦争時にはイギリス商船を合法的に撃沈・・・その判断力が海軍内で高い評価を受け、聨合艦隊司令長官に抜擢されます。

 

そして彼の名を国際的に広めたのは、3日前の拙ブログで記事にした日露戦争における日本海海戦での大勝利。(↓)

 

 

『坂の上の雲』 の主人公の一人・秋山真之が考案したといわれる、この歴史的名文を意味するZ旗を掲げて臨んだ当時世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊との一戦で、意表を突く 『丁字戦法』・・・後にトーゴー・ターンと呼ばれる奇策を用いてこれを撃破、日本海軍の力量を世界に知らしめました。

 

あまり良い例えではありませんが、高校野球の甲子園優勝校が、巨人軍に勝ってしまう・・・それくらいの番狂わせだったんでしょうネ。

 

この勝利に、当時ロシアの圧政に苦しんでいたトルコは大喜び。

 

生まれた子供に「トーゴー」と名付ける親がいたり、現在でも 「トーゴー通り」 が存在する程、同国では国民的英雄なのだそうです。

 

日本海海戦の翌年には、この戦功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与され、また後に日本人として初めてTIME誌の表紙をも飾りました。

     
         
1926年11月8日付

しかし一方では海軍内で絶対的な存在となり、第一線を退いてからも軍幹部が逐一彼にお伺いを立てるようになったといわれています。

 

後に乃木大将同様、(本人の意に反して)『東郷神社』が建立され半ば神格化されたことにより、「日本軍は〝神軍〟であり〝不敗〟である」かのような錯覚に軍部が陥り大東亜戦争に突入する暴挙に出たことを、東郷元帥は苦々しく思っていたのかも。

 

1934(昭和9)年5月30日に膀胱がんのため86歳で世を去った東郷元帥の葬儀は国葬によって執り行われ、英米をはじめ海外の艦船が東京湾に終結、弔砲を撃ったそうな。

 

ニミッツ提督(↓)やハルゼー提督など、かつての敵国軍人からも尊敬されていた偉人のご冥福を、謹んでお祈り致します。

 

 



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皆さんは大東亜戦争の中期、日米両軍の間で交戦した

 

 アッツ島の戦い


をご存知でしょうか?

この太平洋上の小島での交戦を敢えて取り上げたのは、大本営が初めて〝玉砕〟という言葉を国民に対して発したから。

日米間の交戦は主としてハワイ・真珠湾から始まり南方で展開されましたが、このアッツ島は逆に北方・アリューシャン列島のひとつ。.

     

 

なんでこんなところに日本軍が・・・と怪訝に思えますが、これはその前年のミッドウェー開戦に備えた陽動作戦として、このアッツ島(とすぐ近くのキスカ島)を攻略し、守備隊として2,650名を投入して飛行場などを建設したのです。

そのミッドウェー海戦で勝利を収めた米軍がロックウェル少将率いる11,000名もの兵員を率いて同島の奪還を目指し上陸作戦を開始したのは、1943(昭和18)年5月12日のこと。

 

迎え撃つ日本軍守備隊の司令官は、同年4月に赴任したばかりの山崎保代(やすよ)大佐(※没後2階級特進で中将)

      

 

開戦直後から圧倒的な兵力・火力を有する米軍を目の当たりにして、山崎大佐は大本営に歩兵1,500名と武器・弾薬・食料の補給を打診。

しかし大本営はキスカ島からの撤退はしたものの無情にもアッツ島は見捨て、一切の補給をしませんでした。


仕方なく山崎大佐は硫黄島の栗林中将と同様、兵を内地・高地に撤退させ米軍を迎え撃つ作戦に出ましたが、兵力と火力の差は如何ともし難く、同月28日にはほとんどの兵力・弾薬を喪失。

そして翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎司令官は生存者を本部前に集めると、各将兵を労った後に

「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す。」

と大本営宛てに最後の打電をすると、約300名の兵と共に米軍本部に向かって突撃しほぼ全滅。

山崎大佐の遺体は、日本兵の先頭で発見されたといいます。

この戦いに参戦していた米兵は、後に

「あれは、バンザイと叫びながら自殺のための突撃だった。

 日本兵は爆発物を巻きつけて、死のうとしていた。 

 私たちを殺しに来ると同時に、彼らは死にに来たのだ。」

 

と証言しています。

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜として生き残ったのは僅か27名・・・生存率はたったの1%。

対する米軍は戦死者約600名、負傷約1,200名でした。


   

       米軍が撮影した、玉砕した日本兵の遺体

実際は〝全滅〟だったのに、なぜ大本営は〝玉砕〟という言葉を使って発表したのか?

それはミッドウェー海戦で大敗を喫して以降、戦況が刻々と不利になっている状況をひた隠しにしてきた大本営が〝全滅〟という国民にとってショックが大きい言葉を使えなかったから。

また部隊を見殺しにした軍幹部に対する責任論を回避するため、とも言われています。

いずれにせよ、大本営の保身を目的としたカムフラージュであることに違いはないでしょう。

 

〝玉砕〟は、決して日本兵の潔さや忠誠を誓ってのものではなく、大本営の無策・無責任のせいで犠牲になった兵士たちの無念を象徴した言葉・・・私にはそう思えてなりません。

81年前の今日、北方の小島に散った山崎中将以下2,600名余りの英霊に、黙祷を捧げたいと思います。笑3

 

 

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昨日の拙ブログでご紹介した想定問答集の答え、気になっている方もいらっしゃると思いますので、(正解とは言えないかもしれませんが)実際にどう対処したのかを公表させていただきます。

まずは【 問 1】 “マージャン編” から。

 

これは答えというか、その時の現場再現をさせていただきますネ。

 

「マージャン行こうョ!」と取引先の3人から誘いを受けた時

 

(上司も同僚も残業してるのに・・・でも断れないしナ~)

 

と一瞬どう対応しようか、私は迷ったんです。

 

ところが次の瞬間、そんな私を見ていた課長がこう仰ってくれたのです。

 

「おう、ナベちゃん。いいから行ってきな! 
後は心配しなくていいから。」

 

「えっ? あ、ありがとうございます。 
じゃあ、お言葉に甘えて失礼します。」

 

3人の社長さん達は、「さっすが課長、話がわかるなぁ~。じゃ悪いけど、ナベちゃん借りるょ!」と言って、私は即刻拉致されたのでした。

 

上司の暖かい(?)一言のおかげで私も救われ、同僚は納得し、社長さん達も喜んでマージャンが出来た・・・まさに三方丸く収まったワケです。

 

もしそこで上司のフォローがなければ、私がどう言い繕おうと禍根を残す結果になったかもしれません。

 

私はその時、「あぁ、この課長のためなら頑張れるなぁ。」って、ちょっと感動したものです。

 

   

 

そしてこの話には後日談がありまして・・・。

 

何年も経ったある日、この課長と(私とマージャンをやった)社長の1人が社内でバッタリ会ったそうなんですが、その時周囲にいた社員達にその社長がこのエピソードをひとしきりご披露して、

 

「だからさぁ、この人に何か頼まれるとイヤッて言えないんだよナァ。 君らも見習えョ!」

 

と仰ったのだそうな。

 

私だけでなく、社長さんもズ~ッと憶えていらっしゃったんですね。

因みにこの課長は、後に副社長にまで出世されました。

そしてこの時から40年近く経った今でも、私は元副社長さんらと年に数回ゴルフや飲み会をして昔話に花を咲かせているんです。(↓)

 

 

続きまして、【問 2】 “新車編” ですが・・・。

 

おそらくこの問題の正解は、当事者の人間関係や性格、会社の事情・背景等により、何通りかあると思います。

 

諸事情をご理解いただかないまま、当時のやり取りを抜粋しして記事にすると要らぬ誤解を招きかねませんので、この場でのご披露は何卒ご容赦下さい。

 

ひとつだけ言えるのは、ディーラーの社長さんに 「しゃあないナ。そんなら買わんでもエエワ。」 と言ってもらうまでには、かなり長いやり取りがあった・・・ということです。 

(まぁ、丁々発止の持久戦ってヤツですネ。さすがにその場を切り抜けられる、たった一言での“殺し文句”はありません。)😅

 

そしてディーラーの社長さんが言った 「ライバル社の担当者が買った」というのは(私が直感した通り)ハッタリでした。

 

しかし翌日その担当者が社長さんにつかまって私と全く同じことを言われ、それを真に受けた彼は「ナベさんが買ったんじゃしょうがないですね」と、注文書にサインしちゃったんです。

 

後でそのライバル担当者には、散々イヤミ言われましたけど。

 

まったく喰えない社長サンでしたワ。

 

・・・というワケで、どうしてもその社長との交渉内容を知りたい方がいらっしゃいましたら、直接お会いした際に身振り手振りでお伝え致します。

 

いずれにせよ仕事で成功する、あるいは部下にしっかり仕事してもらうためには、まずは人間関係・信頼関係を築くことが一番の王道だと私は思います。

 

もっともリモートで仕事する現代の若者には、「そんなの古いョ!」と言われそうですけどネ。

 

経営者や部下をお持ちの管理職の方々・・・目の前に座っている部下から、いきなりメールで退職願を送信されぬよう十分お気を付けください。


(※コレ、私の知人が実際に体験しました。)😰

あっ、最近は退職代行サービスを使うようですけど・・・。



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新年度に入って、早や2ヶ月が過ぎようとしています。

新社会人の方なら、会社の新人研修を終えて現場に配属され、そろそろ仕事に慣れた頃でしょうか。

しかし理論と実践は別物。 仕事をしていく中では、時として研修では教わらなかった出来事やトラブルが起きます。

そう言った〝土壇場〟でどう対処すべきか、またそういう場面に遭遇した部下をどう指導するかで、その社員の成長に差が出るもの。

とは言え、実際に的確な指示やアドバイスができる上司は少ないのが現実。

世の中には優秀な人材は2割、普通が6割、出来の悪いのが2割という〝2・6・2の原則(法則)〟があるとよく言われますが、私自身の経験からも尊敬できる上司は、2割でした。

そうでない8割の上司に仕えた時に土壇場を迎えたら不幸というしかありませんが、私はそんな時に役立つような〝実践問題集〟を作成しそれを研修で取り上げることこそが、社員の定着率や会社に対するロイヤリティー向上に不可欠だと思うのです。

 

例えば、こんな感じで・・・。

【問 1】

 

忙しい月末の夕方、1日中外回りを終えて会社に帰ってくると、そこには大口取引先の社長さんら3人が待ち構えていました。

 

「ナベちゃん、待ってたょ~。 メンツが1人足りなかったんだ。 

直ぐに雀荘に行こうぜ!」

 

書類整理やらナニやら雑務が山ほど残っているのに・・・。
上司や同僚はジ~ッと私を見ています。

 

さぁ、貴方ならどう対処しますか?

 

そしてもし貴方が上司なら、誘われた部下に何と言いますか?    

 

【問 2】

 

とある地方支店で担当していた某自動車ディーラーを訪問した際、そこの社長に手招きされました。

 

「おっ、ナベちゃんかぁ、いいところに来たな~。 
 ちょっとこっちにおいでョ!」

 

(いゃ~な予感・・・。)

 

デスクの前に座ると社長さん、おもむろに棚から新車のパンフレット取って私の目の前に広げました。

 

      

 

「今度さぁ、い~いクルマが出たんだ。

これ、キミみたいな若者にピッタリなんだょな~。

 

1台買ってくれないかなぁ~? 


キミんとこのライバル・T社の○○クンは二つ返事で買ってくれたんだけど・・・ど・う・す・る~?」

 

300万円以上もする新車なんか、とても買えない金欠社員の私。

 

とは言え無下に断って社長を怒らせたら、シェア落とされちゃうかも。

 

さぁ、このピンチをどう切り抜けるのか?

 

・・・この設問、過去に私が遭遇した土壇場のごく一部です。

 

こういう想定問答こそが実践で役立つと思いませんか?

 

具体的な事例について的確なアドバイスができる上司なら、きっと部下の信頼を得られると思うんですが、如何でしょう?

 

さて、皆さんならこのピンチをどう切り抜けますか?

因みに私は、3人の取引先を怒らせることはなく、また新車も買わずシェアを落とすこともなく切り抜けられました。😅


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今から119年前の今日・1905(明治38)年5月27日から2日間にわたり、日本の将来を大きく左右した戦闘が行なわれました。 

 

それは、司馬遼太郎さんの名作・『坂の上の雲』 の主人公の一人、秋山真之が参謀として大活躍した


 日本海海戦

 

南下政策を進めるロシア帝国を相手に、これを阻止せんとする日本が朝鮮半島・満州地域を主戦場として1904(明治37)年2月から開戦した日露戦争は、陸・海軍とも一進一退。

 

長期戦を嫌気した日本がアメリカ・ルーズベルト大統領に依頼した和平交渉も、当時世界一といわれたバルチック艦隊を有するロシア側が拒否。

 

遂に(対馬沖を中心とした)日本海で、我が聨合艦隊とバルチック艦隊の全面対決が不可避となりました。

 

前年8月に起こった黄海開戦で自国の太平洋艦隊が日本に敗れたロシアは、その2ヵ月後にバルチック艦隊の主力を極東に派遣することを決定。

 

バルト海沿岸の軍港を出航し、大西洋から南アフリカの喜望峰・インド洋を回る7ヶ月もの大航海を経て日本海に到達。

   

 

迎え撃つ我が国連合艦隊は、東郷平八郎司令長官指揮の下、

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」

を意味するZ旗を旗艦・三笠(↓)に掲げ士気を鼓舞。

 

2倍の兵力を持つバルチック艦隊に対し、当時常識外とされた敵艦の鼻先で舵を切ってターンする〝丁字戦法 (トーゴー・ターン)〟を敢行して一気に優勢に立つと、翌日の昼前にはロシア側が降伏。

     

 

バルチック艦隊は被撃沈16隻(戦艦6・他10)、自沈5隻、被拿捕6隻という、艦隊の大半を失う大損害を被り、一方連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ。

 

大艦隊同士の決戦としては、世界史上稀に見る圧倒的勝利を収めました。扇子

 

この決戦の大勝利によって戦局は大きく日本側に傾き、ポーツマス講和会議での和平交渉成功に至ります。

 

当時世界最強といわれたバルチック艦隊を東洋の島国艦隊が撃破したことは、世界中から驚異の目で見られました。

 

何故なら、史上初めて非白人小国が白人大国に勝利したから!

 

当時ロシアの圧政に苦しんでいたトルコは、この一報に狂喜乱舞。

 

東郷元帥は国民的英雄となり、子供に 〝トーゴー〟 と名づける親が続出。


また 道路にも〝トーゴー通り〟が現存しています。

      

 

そして私が誇りに思うのは、同海戦で6,000名以上出たロシア人捕虜に対し、我が国は当時の戦時国際法を忠実に遵守し手厚く保護したこと。

この行為は世界各国から賞賛されたのですが・・・現在の学校教育における歴史の授業では、こういった功績を殆ど教えていません。

 

先人の立派な行為を子供たちに教えないどころか、いつまでもお詫びを繰り返す現代のヘタレ政治家・官僚たち。

私はおかしいと思うのですが、皆さんは如何?

因みに大東亜戦争後GHQによって廃止させられましたが、5月27日はこの海戦の勝利を祝う 『海軍記念日』 でした。


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(地域によっては違うかもしれませんが)毎週日曜日の午後6時30分から、『サザエさん』 をご覧になりながら食卓を囲むご家庭は多いはず。

このギネスブックにも認定されている超長寿・超人気アニメの原作者は、皆さんもよくご存じの


 長谷川 町子 さん

今日は、彼女の命日・三十三回忌にあたります。

 

      


1920(大正9)年に三人姉妹の次女として現在の佐賀県多久市に生まれた長谷川さんは、三菱炭鉱の技師だった父親の仕事の関係で、程なく福岡市に転居。


その父親が死去したため一家は1934(昭和9)年に上京し、彼女は現在の山脇高等学校に転校。

そして2歳頃から暇さえあれば絵を描いていたという町子さん本人の希望により、高校在学中から田河水泡に住み込みで弟子入り。

 

「女の子の弟子は、珍しいでしょう?」

と事ある毎に編集者に売り込んでくれた師匠の計らいによって、早くも15歳で少女倶楽部10月号に処女作品の 『狸の面』 が掲載され、漫画家デビュー。

     
        
 田河水泡師匠と長谷川さん        

 

しかしホームシックにかかって僅か1年足らずで出戻り、その後一家は福岡に疎開。

福岡でいくつか作品を発表し少女倶楽部に連載をしましたが、やかり長谷川さんといえば、『サザエさん』。

 

終戦後の1946年4月22日に、福岡の地方紙・夕刊フクニチに4コマ漫画 『サザエさん』 の連載を開始

連載開始に先立ち妹さんと海岸を散歩しながら構想を練ったため、登場人物が海産物の名前ばかりになったのだとか・・・。

 

その後東京への転居もあり掲載紙が変わったり、また途中休載期間もあったものの、1974年2月21日の朝日新聞の掲載をもって終了となるまで、その間の連載は実に6,477回に及びました。

 

        

          サザエさん 第1巻

 

テレビでの放映は、1969年10月5日にフジテレビで第1回の放送を行って以来、現在に至るまで55年も続いており、最高視聴率は39.4%、今でも昔に比べて落ちたとはいえコンスタントに2桁を叩き出すオバケ番組です。

 

一方で長谷川さんは著作権(知的財産権)の保護にも先駆者として活動され、1970年には無断でキャラクターを使用したバス会社を提訴したこともあったとか。

もっともその厳しい著作権管理のおかげで、フジテレビはドル箱である同番組の再放送ができず、また今もってDVD化されていませんが・・・。

それではここで、昭和時代の貴重なさざえさんの動画をご覧ください。

現在とは内容もキャラも隔世の感がありますが・・・。😱

 

 

1992(平成4)年5月27日、心不全により72歳で亡くなられた2ヵ月後、〝家庭漫画を通じて戦後の我が国社会に潤いと安らぎを与えた功〟により、国民栄誉賞を受賞されました。

 

また同年12月には、東京サザエさん学会から 『磯野家の謎』 という本が出版され、所謂〝謎本〟の元祖として人気を博しましたネ。

 

       

 

これ程までに老若男女を問わず、国民に愛され続けるマンガは 『サザエさん』 の他には見当たらないといっていいでしょう。

だって、原作者が亡くなられた後も放映が続くアニメなんて、そうそうありませんから。

そんな 『サザエさん』 の誕生秘話を知りたい方には、長谷川さん自身が筆を執ったこの本というかマンガをオススメします。


 
『サザエさん うちあけ話』 

            (朝日新聞出版・刊)

 

      


これを読めば、より一層サザエさんに愛着が湧くこと請け合い。

私も今日、久しぶりにこの本をめくりつつ女流漫画家の草分けのご冥福を祈りたいと思います。笑3

 

 

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