[砲台跡と植木枝盛に影響された豪商たち]
西浜獄舎跡の十字路から南下し、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架を抜けた西側のコンクリート壁上に赤岡砲台跡の看板が建っている。
幕末が近づくと土佐沖にも黒船が現れるようになり、文政12年(1829)12月14日にも赤岡沖で目撃されている。
そこで藩では弘化3年(1846)9月、幕 府に大砲鋳造を申請、翌年2月、異国船防御の配備要項を定め、5年3月、海岸守備地区と要員が決められた。赤岡村の郷士は和食から手結までの担当区だったが、地下浪人は手結から種崎までの担当区に回された。
看板には弘化時代の砲場跡と記されてあったと思うが、全国的海防関係の文献の中には、文久3年(1863)以降に急造されたと記されているものもある。
自治体のウォーキングマップにはここに「4台」の大砲が据えてあった旨、記載されているが、大砲の数の単位は「門」であり、赤岡町史には3門据えてあったと記されている。
昭和後期までは台場の胸墻(しょう)部が残っていたようだが、港の再開発等で 消滅した。
台場跡の西には墓地が地続きであるが、これはすぐ側に首切り場があったことが影響しているのだろう。
高架下の四差路からは東に歩き、左手に二軒過ぎた先のT字路を北に折れる。その前に赤岡駅で用を足しておいても良い。
すぐL字に突き当たるが、左折してからすぐまた北に向かう。左手に三軒過ぎるとまたT字路で、ここを一旦東に折れた後、すぐ北に折れる小径に入る。
この道も数十秒でT字路に突き当たるが、東の国道に出て北に歩き、歩道橋かその先の信号交差点で東側に渡る。そしてその信号交差点から東に折れ る。
すぐ南側に「野市屋旅館と植木枝盛」の看板が現れる。枝盛(えもり)のことは、高知県の歴史に詳しい方なら皆知っているほど有名な自由民権運動家。
安政4年、藩の祐筆役藩士の一人息子として生まれた。明治7年、帯屋町で板垣退助の立志社創立の演説を聞き、自由民権運動に参加するようになった。第一回総選挙で衆議院議員となったが、明治25年、35歳で病没した。
枝盛が生前執筆した全220条からなる「東洋大日本国国憲案」は、終戦時の憲法研究会案作成時、参考にされ、GHQ草案にも取り入れられてい
る。
割烹旅館の野市屋には明治半ば、枝盛が遊説に訪れた際、宿泊し、材木商の寺尾梅太郎や元組頭で酒造家でもある初代赤岡村村長・小松与右衛門等に民権思想を説いている。
旅館は残念ながら平成4年に取り壊された。
尚、与右衛門邸は今でも残っているが、文化5年(1808)、伊能忠敬一行が赤岡村に測量に訪れた際、右衛門邸の塀沿いに北緯33度33分の標準点石を設置している。現在、自治体が記念碑を建てている所よりも東方である。その話はまた次回以降に。
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