お龍、土佐和食(わじき)へ(21) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[鉄道廃線跡から街道へと]

観音山上り口まで引き返すと、東側の民家沿いに女性民権活動家、吉松ます生家跡の標柱が建っている。13歳で孤児となったます(「舛」や「益」とも書く)は、家督を継いだ従兄弟の吉松賢治の元で養育されるが、賢治が民権結社「夜須補天会」の幹部だったこともあり、ますも自由民権運動の思想に染まっていく。

 

そして14歳になって以降、高知新聞前身の土陽新聞に女権論に関する投書を続けて注目を浴び、植木枝盛とも交流するようになり、枝盛の推挙で演説もするようになる等、高知県を代表する婦人解放活動家へと成長していく。

一時期は潮江新田の板垣退助邸に寄留し、退助の三女・猿(えん)と一緒に高知英和女学校へ通学していた。

 

全く無関係の余談の手前味噌で恐縮だが、私も’03~’04年時、高知新聞への各種投書はほぼ100%掲載されていた。

 

ますは明治28年、退助の側近で結社「発陽社」の中心人物の一人だった中西幸猪と結婚している。没したのは東京だった。

 

ます宅跡からは交通量の少ない車道や小径を辿って回遊する。生家跡から東進していると前方の山に、国民宿舎・海風荘が小さく見えるが、本館南(下の写真では左横)の円型会議場の箇所には宝永元年(1704)、遠見番所が設置された。琉球や南蛮船を見張るための施設で、怪しい船を見つけると烽火を上げ、城下まで烽火リレーで知らせていた。

 

T字路に突き当たると南に折れる。この生活路は国道と土佐くろしお鉄道の高架を抜け、ヤ・シィパークに突き当たる。そこからはまた東に折れ、鉄道沿いを東進する。

 

夜須駅を過ぎると土佐電鉄安芸線廃線跡の「県道高知・安芸線自転車道」を辿るが、すぐの夜須川橋梁(一番目の写真)手前から、橋梁南に並行する小径が分かれている。夜須川手前に地蔵(下の写真)があることから、ここに土佐東街道の渡しがあったのだろう。

 

廃線跡自転車道をそのまま南東に進んで行くと、前回触れた、土佐くろしお鉄道の当初の夜須駅予定地が現れる。その南端の十字路付近(下の写真)が、土佐電鉄手結駅跡(前回は「夜須駅跡」と誤記したかも知れない)である。

 

十字路から左手に七軒過ぎると、幅員の広い車道を横断するが、ここから先は、自転車道の西に並行する車道が街道跡ではないかと思われる。しかしその道沿いには旧家が見当たらないため、山腹の自転車道を歩く(下方の写真)。

 

因みに7年ほど前、前述の幅員の広い道路と国道との交差点北にある遍路石から続く小径が、街道ではないかと述べたと思うが、それは誤りで、轟神社参拝道兼手結山に明治期、造成された「四国新道」への近道として利用されていたものと推測される。

 

左手の擁壁が途切れると、右手に四国のみちの道標が現れるので、ここで自転車道と分かれ、小径を街道へ向けて下りる。そちらの街道沿いには蔵や旧家、ロケ地等があるのだが、それはまた次回。

 

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