[隊員の訓練と終戦翌日の出撃待機]
串の浦の民家を宿舎としていた二隊の回天隊搭乗員の日常は、午前中、格納壕に格納されている自分の回天で操縦訓練や、整備員と共に整備具合を確認し、午後は水練や資料作成、昼寝等をして過ごし、夜間の本番訓練に臨んだ。これは夜間なら米軍機の飛行も少ないため。
搭乗員が本番訓練を行う前、整備員や基地要員は格納壕からの回天の引き下ろし訓練を行うが、人力で神楽棧(かぐらさん)を回すことは容易ではなく、側で見ていた搭乗員が手伝うこともしばしばあった。
広島、長崎への原爆投下後の8月12日夕刻、回天隊に「明朝〇六〇〇(まるろくまるまる=6時のこと)以降即時待機」命令が下り、第一次出撃隊として第四回天隊の坂田秀則と第七回天隊の河崎春美が指名された。二人は回天の発進準備を行った後、宿舎へ帰り、身辺整理を行い、不要物は焼却した。生きて帰ることはないからである。
隊では宿舎の庭でささやかな酒宴を行ったが、宿舎の主、橋本氏は何度呼んでも出てこず、家の陰から隊員たちを見守るのみだった。
しかし翌日、米軍の機動部隊は関東方面に向かった、ということで待機命令は解除された。
そして8月15日、正午に「重大放送」があるから各自必ずラジオを聴くよう指示がある。しかし皆、聞き取れなかったため、猫神社東にある衛門の番兵の制止を振り切って司令本部(下の写真が跡地)に詰めかけてみると、通信壕前で士官たちがうなだれていた。
その後、横山司令官が「終戦」を伝えたが、回天搭乗員たちはやりきれない思いで、拳銃を所かまわず撃つ等した。
夜にはラジオから「只今より適性音楽を放送します」というアナウンスが流れ、搭乗員たちは苛立ちながら「六段の調べ」を聴くしかなかった。
が、翌日、事態は一変する。以前詳細を解説した「第128震洋隊の悲劇」が起こるのである。高知海軍航空隊から第五航空艦隊司令部に「高知沖南方25キロに敵軍の戦艦又は巡洋艦のマスト3本見ゆ」の緊急電報が入り、それを受けて23突撃隊司令本部では本部基地隊や各派遣隊に「敵機動部隊は本土上陸の目的を以て、土佐沖航行中につき、直ちにこれを撃滅すべし」との伝令を発する。須崎の回天隊にも「十二時間待機」が発令される。
県下各地の陸海軍の間で誤報が飛び交う中、手結派遣隊の第128震洋隊の震洋が燃料漏れから大爆発を起こし、100名を超える爆死者を出してしまう。
しかしまたもや当日深夜、回天隊の待機命令は解除される。そして翌17日、大本営は「即時戦闘行動を中止すべし・・・中略・・・二十二日午前零時(停戦協定成立時間)以降は一切の武力行使を停止する」と発表したのである。
<関連地探訪>
(1) 竈戸神社防空壕
串ノ浦集落東の山際に神社があり、その背後に防空壕が掘られている(上の写真)。資料が散逸しているため、誰が掘ったものかは覚えていない。
(2) 橋本寅治氏宅と楠吉氏宅(串ノ浦バス停南方)
第四回天隊搭乗員宿舎は多ノ郷乙串ノ浦427番地の橋本寅治氏宅、第七回天隊搭乗員宿舎は串ノ浦437番地の分家の楠吉氏宅だった。寅治氏宅の庭の池やコンクリート小屋は今でも残っているが、小屋の方はグラマン等の機銃掃射があった際には防空壕として利用していた(下の写真)。
寅治氏はカニ漁も須崎湾で行っており、搭乗員の中には同行して手伝い、帰宅後、カニ料理を御馳走になった者もいた。カツオのタタキを初めて食べた隊員も多かった。
(3) 箕越の回天格納壕群
串ノ浦集落を過ぎた先のY字路から前方右の道路に入る。そのY字路から猫神社手前まで、1~16番の回天格納壕を始めとする横穴壕が掘られていた。何割位残っていたのか記憶にないが、いくつか残っていた。猫神社の一つ手前の壕は基地図に記載の受信所壕で、二つ手前の壕は受信電源所壕。但し、現況の記憶はない。
(4) 司令本部跡
猫神社先の道路終点の岸壁沿いに司令本部庁舎(下方の地図)があり、その手前に要具庫があった。庁舎の西側が船着場跡。その北の居住隧道は目視できなかった。干潮時なら分かるかも知れない。その北側は須崎鉱業所のホッパー基部跡(下の写真右端の岬)。
船着場南の山際にはコの字型隧道跡(6と7枚目写真)がある。昭和20年6月15日付の資料では「指揮所壕」とされているが、通信兵も常時いて、電鍵を打っていた。北側の入口跡(6枚目写真)はある程度分かるが、南側は完全に崩落している。進駐軍が来る前に機密書類等を入れて爆破したのだろう。
次回記事の「中に入れる回天壕」に期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。