龍馬は何のために土佐市の新居坂(宇佐坂)を通ったのか | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[ジョン万次郎が通った記録はあるが]

高知県土佐市新居の本村トンネル北口東側には、宇佐坂(新居坂)津波避難所の看板があり、その先のY字路の古道入口には、この古道を坂本龍馬やジョン万次郎が通ったと言われている旨の朽ちた看板が立てかけられている。万次郎がハワイで暮らしていた宇佐出身の仲間と共に嘉永5101日、ここを通ったことは河田小龍の『漂巽紀略』から読み取れるが、龍馬が通った記録はない。

 

宇佐坂は遍路道でもある塚地峠の別称でもあるため、混同されがちだが、こちらの宇佐坂は古文書等に「新居坂」と記されている坂道の方。以前、「再否定!坂本龍馬脱藩の道須崎廻り説」(左サイドバーにリンク[須崎廻り説の徹底考察])の記事で解説した、高知市春野町を走る土佐西街道から分岐して弘岡番所(下の写真が跡地)、十文字の渡し、上ノ村、山ノ神集落を経由して取付く峠道。最高所の峠は「土佐のマイナー山part2」で解説した、黒岩山北の切通し部。

 

ジョン万次郎自身は帰国後、土佐藩での取り調べを終えて故郷の土佐清水へ帰るなら、土佐西街道を西進するのが最短ルートだが、共に難破してアメリカへ渡った宇佐出身の森田筆之丞・五右衛門兄弟が一緒だったため、こちらのルートを選んだのである。新居坂は新居と宇佐を結ぶ往還である。故にこの峠道を高知方面から辿るとしたら、宇佐か横浪半島方面に用事がある、ということになる。

 

例えば「郷士年譜」によると、宇佐には海防のための駆付郷士が3人いた。龍馬も種﨑砲台で訓練した経験があることや、勤王思想を説くために彼らその他の郷士らと交流したのだろうか。

 

或いは新居坂の峠から黒岩山を経て、立石集落に下りる道があったことから、立石隣の台場地区にあった新居砲台(「四国の戦争遺跡ハイキング」参照)を見学しに行ったのだろうか。

それとも、山陽や関西、東海地方等で修行を重ね、博学でもあった宇佐の真覚寺の井上静照住職に京の政治情勢等を伺ったのだろうか。

 

前述の津波避難所(上の地図は古道入口)は本村トンネル上部を通り過ぎてから、左手の階段を上がった先にあり、土佐湾方面に展望が開けている。

土佐の幕末史ファンなら、本村トンネル近くの山に、ある志士の墓が建っていることはご存知のことと思うが、その志士の墓碑銘は、山口市嘉川の明正寺で窪田真吉 (真田四郎)を見殺しにし、後に海援隊士となった志士の妻によるもの。先月、四万十町教育委員会で講演した窪田真吉列伝はいずれ記事として投稿したい。真吉を明正寺で見殺しにした他の土佐浪士全員の関連地も探訪済。

 

ところでなぜか前述の森田筆之丞・五右衛門兄弟の墓は看板が設置されているにも拘らず、ネットでは出てこない。場所は以前摩崖仏を紹介した、塚地峠の萩谷登山口に近い所。探訪時、車は安政地震碑のある広場に駐車する。そこから萩谷川沿いを下って二つ目の橋を北に渡る。前方には墓地が見えているが、そこは常楽寺跡。上って行くと左手に看板が現れるから分かる(下の地図)。

 

難破してジョン万次郎と共にハワイへ渡った森田兄弟だが、渡航した当初は「森田三兄弟」だった。重助という兄弟もいたが、鳥島での足の怪我が元でハワイの地で亡くなった。筆之丞と五右衛門はホイットフィールド船長の友人である宣教師の計らいで小さな住居や当面の生活費、耕地を与えられ、万次郎が迎えに来るまで暮らしていた。

 

『漂巽紀略』によると、筆之丞と五右衛門が宇佐へ帰ってきた際、既に住居は朽ち果ててなくなり、跡地も分からないほどだったという。それでも親類の家に寄宿し、これまでの艱難辛苦を集まった親族一同に語ったという。が、二人は他国へ出ることを禁じられたばかりか、漁をすることまで禁止され、藩から扶持を受けて細々と暮らしたという。筆之丞は元治2年、五右衛門は安政6年に没している。

 

ところで万次郎ら5人が「運命の」延縄漁に出るため、天保1215日、出航した地についてだが、以前は萩岬西の土佐のかつお節発祥の地碑横に案内板が出ていたと思う(案内板の場所は当方の勘違いかも知れないが)。現在はその西方の宇佐しおかぜ公園下り口に石柱が建つのみ。しかし正確な船出の地は、そこより北西の宇佐漁港内(上の写真)だったと言われる。

 

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