高知海軍第三飛行場・後編~素掘り掩体壕群~ | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

四万十町宮内の集落は南北に長く、その中央部に前編で解説した基地本部跡がある。戦争遺跡の探訪は南の宮内に隣接する仕出原地区から。ここの五社神社(高岡神社)境内の複数箇所に航空燃料のドラム缶が保管されていた。

 

「高岡神社」という社名を冠する神社が近接して五社あることから、五社神社と総称されるが、創始由来は詳らかでないほど古い。創建当初は一社のみで、弘法大師空海が境内に神宮寺として福円満寺を開き、四国霊場第37番札所(現在は他所の岩本寺)に指定したことをきっかけに五社に分かれた。南から森宮、今宮、中宮、今大神宮、東大宮と続く。

 

この内、今宮と東大宮はすぐ背後に山が迫っており、それぞれその斜面を縦に掘り込んだ跡がある(下の写真)。これらがドラム缶保管跡と思われる。各保管場所前では海軍兵が24時間監視していた。中宮の子安神社を挟んだ北の民家も海軍兵の宿舎となっていた。

高岡神社の駐車場は中宮前T字路の東方にある。

 

東大宮の北側には払川が流れているが、この西岸に並行する農業用水路があり、その水路沿いに三基の素掘り掩体壕が残っている。竹藪の中にある直径十数mほどの斜面の掘り込みがそれである。水路は戦後造られたものと思うが、この水路と払川に挟まれた小径が誘導路跡だろう。白菊はバックから壕に入れていた。

 

五社川橋を北に渡った先の民家が宮内南端の人家で、この前に衛門があり、例え宮内集落の住民でも通行札を衛兵に見せないと通行できなかった。

最初に右手に現れる民家も宿舎になっていた。

「中宮内」バス停手前のT字路を西に入った突き当たり、現在貸家の旧岡林家裏の斜面に防空壕が掘られていたが、擁壁により消滅している。その旧岡林家か、その南の掛水家に無線機が置かれていたものと思われる。

 

「中宮内」バス停北のT字路を西に入った突き当たりの小原家(現、空き家)は航空機の誘導路造成のため、昭和20年に壊されていた。その背後の山際を小径が伝っているが、南西隅に掩体壕が一基確認できる(下の写真)。北側の墓地の下も壕跡のように見受けられる。

 

次は前述のT字路北の十字路を西に入る。突き当たりの民家裏、三嶋神社下の山際には透明のトタン板で封鎖された横穴壕らしきものがある(一枚目の写真)。

三嶋神社前から谷沿いの農作業道を北西に進んで行くと、左手に柵があり、その内側が長方形に窪んでいる。これは竪穴壕跡か。

 

そこを過ぎると左手に一軒の倉庫が現れるが、この倉庫内の斜面側にはドアがある(上の写真)ため、その奥に横穴壕が残っているものと思われる。

農作業道はその先で、猪除けネットのため、通行できない。が、対岸のネット奥に目をやると掩体壕が見えている(下の写真)。

 

畑の畦道を伝って対岸の小径に移り、下って行くと複数の掩体壕跡が確認できる。

左手上に現れる畑も掩体壕跡を利用したもの(下の写真)。

その先の道沿いの小さな穴は、海軍のものか生姜の保管庫か見分けがつかない。

ここから次の掩体壕群までは少し距離があるため、車で移動した方が良い。

 

宮内集落を北に抜けると東川角地区に入る。最初の人家は朴ノ木谷にあるが、そこから少し引き返し、ヤブが薄い所をかき分けて山際に行くと周辺に掩体壕跡がある。

一旦県道に戻り、畑跡を適当に歩いて朴ノ木谷南の山際を探ると掩体壕がある。

また県道に戻り、人家の北側から北西に入る水路沿いの野良道を辿り、畑の畦道を歩かせて貰い、山際に到るとまた複数の掩体壕が現れる。

 

水路沿い野良道は途中でヤブ化して進めないが、この道はかつて丸山国民学校(後の旧丸山小学校)に繋がっており、学校前にも衛門が設置され、脇に歩哨舎が建てられていた。学校跡は現在、資材置き場になっている(下の写真)。

 

今回の戦争遺跡は皆、斜面の掘り込み程度のもので、見応えはさほどないかも知れないが、この四万十町の旧窪川町地域には、以前紹介した茶臼山城跡防空監視哨跡(→茶臼山城跡防空監視哨聴音壕 )もあるので、未探訪の方は合わせて探訪するといいだろう。

 

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