私の研究成果による観光資源化事例集 | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[調査・研究は世のため人のために]

先日、観音寺市の高屋神社の鳥居が「天空の鳥居」として爆発的人気になっていることを述べたが、あれから調べてみると、やはり2016年に投稿した当方の記事が全ての元になっていた。今やNHKや大手新聞の香川県版、三豊市と観音寺市のホームページでも「天空の鳥居」の呼称は使用され、メジャー化している。

 

天空の鳥居は当方がきっかけとなって観光資源化された代表例だが、過去、ブログでも触れたように、他にも当方の調査・研究成果が観光資源化や地域活性に寄与した事例がある。

 

(1)  アケボノツツジ・ハイキング・イベント(越知町)

‘00年代初頭、二作目の自著の登山ガイドブックに収録している横倉山系・八艘ヶ森や横倉三山の真ん中の山、大平山(ハナセ嶽)の複数のルートを踏査中に、烏帽子岩周辺にアケボノツツジ群落と修験者が使用していた鎖を発見した。

 

これを自治体関連機関に報告して踏査した地図を提供すると、道や道標が整備され、その機関主催のアケボノツツジ・ハイキングが毎年開催されるようになった。

現在、このイベントは開催されていないが、参加者の中には毎年、個人的に花を見に行っている者もいるだろう。

 

(2)  脱藩の道のルートが一部変更(津野町)

‘08年に出版した自著の坂本龍馬の街道本第一弾では、これまで各自治体等が紹介してきた脱藩の道ルートの車道部分の内、何割かは古道が残っている旨、解説しているが、当時の津野町の教育長らも拙著を購入してその見解を支持した。そして翌年、教委の招聘で講演を行った。

 

更に’10年、町では船戸トンネル周辺の脱藩の道ルートを拙著ルートに変更すべく、改修費用を予算化し、各分岐に道標を設置した。

 

(3)  龍馬の滞在先がミニ資料館に(徳島県美馬市)

‘90年代初頭、龍馬が文久22月に滞在した伝承のある美馬市の鎌村家の当時の当主(夫人)は、伝承を私家版の冊子にまとめて、坂本龍馬記念館に送る等した。しかしその伝承がクローズアップされることはなかった。

 

しかし’00年代に入ると、鎌村家住宅が文化財的価値があるとして、地元の複数の新聞が龍馬の伝承と共に掲載した。が、それでもあまり世間から注目されなかった。

そこで当方がこの伝承の信憑性を確かめるべく、龍馬と鎌村氏に関連した人物とその交流伝承地について徹底的に調べた。すると、龍馬と鎌村氏の仲介役の勤王家(下の写真は本人が書いた書状)が、龍馬と交流していた旨、「日本維新人名辞典」にも記されていることが分かった。

 

更にそのことを辞典に執筆した歴史研究家は、その仲介役の勤王家と活動を共にしていた別の勤王家と先祖が同じ可能性があることが判明した。その別の勤王家も龍馬と交流した伝承があり、その地には龍馬の宿泊した伝承のある旅籠(‘90年代まで旅館だった)も見つかった。

 

他にも何人もの関係者について調べたところ、この鎌村家の伝承は信憑性が高いことが分かった。

そして’09年、この時、龍馬が歩いた街道についての著書を発行、翌年、美馬市の隣町で「四国龍馬街道写真展」を開催すると共に、坂本龍馬記念館にもこの伝承の重要性を説くため、記念館が事務局となっている現代龍馬学会に入会し、論文を発表した。

 

拙著や写真展についてはNHKや徳島新聞でも報道され、観光関連の公的サイトにも拙著と共に鎌村家の伝承について掲載された。

そうして注目度が高くなり、鎌村家現当主が自宅に、龍馬の遺物と先祖の鎌村氏に関するミニ資料館を開設するに至ったのである。

 

(4) 山口槃礀の遺品群を県立文学館に寄託(高知市)

龍馬の脱藩初日、龍馬らにレンゲ汁を馳走した佐川町斗賀野の山口彦作の親類で本家筋の漢詩人・山口槃礀(ばんかん)傍系子孫(県外在住)から’15年、槃礀の遺品や作品の原本を高知県民のために役立てたい旨の相談があった。そこで県立文学館に寄託するよう、仲介した。その際、文学館の要望により、槃礀のことについて触れている拙著の脱藩の道本を寄贈した。

 

寄託した遺品や原本類は膨大な数に及ぶため、まだ文学館では展示されていないが、遺品の中には、槃礀(上の写真は邸宅跡の傍系子孫所有家屋)が昭和初期、桂浜の龍馬像を訪れた際に詠んだ漢詩も含まれており、もし展示・公開されればそれなりに注目されることは間違いない。

 

(5)志士の無実の罪を晴らす(高知市と四万十町)

  昨年、四万十町観光協会関係者から連絡があり、町出身で高杉晋作らと共に長州藩内の俗論党と闘った志士・真田四郎を顕彰するにあたり、詳細を伺いたいとのことだった。

 四郎は過去、説明したように、高知県側の古文献・資料では長州内で酒に酔って通行人を殺害した罪を、所属していた嘉川浪士隊に問われ、切腹したことになっている。しかし当方が山口県側の資料を調べた結果(脱藩の道長州路の本を製作時)、四郎は長州藩の内訌に巻き込まれ、誤解を受けたまま切腹させられていた。

 

これにより、四万十町観光協会では四郎の無実の罪が晴れたとし、高知市の拝み墓に堂々と案内板を建てることができ、町民に対しても「誇れる郷土の志士」となり、高知新聞や四万十ケーブルテレビでも報道された。

その後、四万十町教育員会の招聘で町に出向き、講演を行った。

今後、四郎が経営していた魚屋兼自宅跡に新しい案内板が建つかも知れない。

 

余談だが、当方がヤマケイサイトに投稿している四万十町の六川山の登山口に一番近い集落が、四郎が生まれた「与津地」であり、四郎の本名の苗字と同じ苗字の住民が今も何人もいる。但し、生家跡や先祖墓所については伝わっていない。

 

更なる余談だが、龍馬が四万十川の堤工事の現場監督者として出張した際に歩いた土佐西街道中、四万十町の呼坂峠に今後、案内板が建てられる模様。そしてその工事の際の伝承地、四万十市の「龍馬昼寝の松跡」には既に案内板が設置されているという。

 

PS:先日過去の新聞で「龍馬昼寝の松跡」の案内板の記事を確認したが、2016年に実際の場所よりかなり上流の桜づつみ公園内に設置された模様。

 

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