ロサンゼルスにあるペルー料理のレストランへ行きました。

今日はちょっと長いです


そこは英語が通じず、話す言葉はスペイン語。
ジャパニーズだと言うと

「私も日本語少し話せます」と。


日本人ですか?



私のチチとハハはニホンジンです
「イシカワ」といいます。
今の私の名前は「ヤマシロ」。ケッコンしたからね。
私の名前は



ナエです。



日本人の両親を持つ、ペルー生まれの「ナエ」さん。



ペルーで生まれ育ち、日系ペルー人と結婚。
10年前よりアメリカへ移住。
娘さんは26年前からアメリカへ。

「岐阜に住んだ事あります」と、ぎこちない日本語で話すナエさん。





日系ペルー人って数十万かそれ以上いらっしゃるそうです。


ペルーと日本の関係。
レストラン書く前に、ちょっとまとめてみます。ーーーーー



ペルーと日本は マリア・ルス号事件(明治5年1872年)が最初。

清国(中国)人がペルーへ、労働力として輸送される途中、船が横浜港へ停泊。
清国人労働力を奴隷と判断した日本政府が船の人たちを解放した。

その後、231人の清国人は解放され帰国。清国政府は日本政府へ友情的行動の誠意を表明。
そしてペルーは損害賠償を訴えたけれど、ロシアが仲裁に入り国際裁判になり日本への訴えは退けられた。

 ちなみに日本でも人身売買は公然と行われていた。
この事件をきっかけに廃止になります
芸娼妓解放令


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ペルーへ日本人移民が始まったのは1898年(明治34年)。
ペルーの大農園主が労働力を求めた為、集団移民が始まった。
1923年(大正12年)、移民政策が廃止されるまで17764人が渡った。


アメリカとは、日本の満州事変以降、日米関係が悪化。
親米的なペルー社会に、反日感情が生まれ
真珠湾攻撃後は日系集会や新聞の禁止、資産凍結、そして2000人の日系ペルー人は
アメリカの強制収容所に送られたそうです。

その後、1990年フジモリ大統領の誕生、そして失脚・汚職問題と日本でも話題に。
日系人のポジティブイメージは一気に傷つく事になったそう。

そういう事や経済、政治の不安定もあって
アメリカに渡った日系ペルー人も多いらしい。



アメリカの日系人
ペルーの日系人
そして世界最大の日系人移住地のブラジルなどもありますが

私の娘も「日系人」。
アメリカで子供を生んで以来、日系人というと感慨深いものがあるんです。



私自身、アメリカファーストジェネレーションで
娘がセカンドジェネレーション。


このレストランの「ナエさん」は
娘と同じセカンドジェネレーション。


笑顔がシャイで
ああ、こんな所で日本人に会うなんてって

アメリカで会う日系の方とはまた違った
大げさに言うと驚きと感動みたいなものを感じました。


どんな人生だったんだろう。
日本国籍を持っているのかな?
岐阜に住んだと言う。日本はナエさんを温かく迎えてくれたのだろうか。


次回、この日系ペルー人のお店




決してオシャレでもなく
思いっきり南米?というディープなエリアに
英語は聞こえず皆がスペイン語。


ペルー人に紹介してもらった
ペルーレストランをUPします。


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