(待てよ…)
冷静になって考え出すと、もし訴えたりしたら可南子が長谷とそういう関係になった事が周囲の皆に知られてしまうのではないかという事に気が付いた。涼二に知られたら心ならずとは言え裏切られたと思われるかもしれない。否、それよりも長谷なんかと関係を持ったなんて事を誰かに知られる事など耐えられない。こんな事、誰にも知られたくない、知られてはいけない事だ。しかし、あの馬鹿な長谷はみんなに吹聴するかもしれない。可南子ほどの女とそうなったのだ、誰だって自慢したくなるに決まっている。これは早々に口止めしなくてはいけないと思った。とは言え、このまま長谷に何も言わないというのも腹立たしい。それ相応の事はして貰わなくては。高級料理を何回か奢って貰ったくらいじゃ合わない。このまま一生、無制限にご馳走して貰うというのも有だ。でもそうなるとやはり結婚を持ち出すだろう、長谷にとっては可南子のような女性を妻にもてる等という事は高嶺の花を手に入れるようなものだろう。取り敢えず口止めしなくては、と思ったが考えてみたら長谷の連絡先を知らない、連絡先どころか家もどこにあるのか知らない。興味がなかったからそんな事聞いた事も無かった。いつも会社の内線を使って長谷の方から連絡してきていた。
(仕方が無い、月曜日早く行って口止めしよう)
後の事はまた考え直そう。お腹いっぱいになったせいかまた眠たくなってきた。ウトウトと眠り始めると夢の中に長谷の顔が浮かんで可南子は何度と無く目を覚ました。そして、その度に長谷に対して怒りが湧く。
(やっぱり、このまま泣き寝入りなんて出来ない、それ相応の対価は貰わなくては…)
そんな事を考えている間に深い眠りに落ちていった。
長谷に口止めしなくてはと気が急いていたお陰か翌週の月曜の朝は可南子にしては珍しくいつもの始業時間ギリギリではない早い電車に乗れた。
「あら、角田さん、おはよう。今日は早いのね」
声を掛けてきたのは佳代子だ。朝っぱらから嫌な奴に会ったと思った。
「おはようございます」
「私は今日はいつもの電車より一つ遅いの。ゴミ出し忘れていて、乗り遅れてしまったの」
いちいち嫌味だなと思う。可南子には早いのねと言っておいて自分は乗り遅れたなどという。
「そうなんですか」
「あら?」
可南子の顔をじっと見て佳代子は微笑む。
「な、何ですか」
「何だか今日はいつもと雰囲気が違う感じ。何か、良い事でもあったのかしら」
「べ、別に何も…」
良い事などあるわけもない、でも何なのだ、この意味ありげな質問は。
(まさか…)
まさか、金曜の夜の長谷との事を知っているのだろうか。否、そんな筈は無い、佳代子と長谷に接点があるとは思えない。いくらなんでも知っている筈が無い。
「そうお?角田さん、なんか最近綺麗になった感じがしていたから」
「べ、別に変わりないです」
「彼氏とは上手く行っているのね」
「か、彼氏?」
やっぱり何か知っているのか。
「ええ、ほら、前にそんな事言っていたじゃない」
前?そう言えばそんな事言っていた様な、しかしこのタイミングでそれを持ち出すなんて何か怪しんでいるような気がしてくる。
「特に変わりはないです」
「そうなの。そう言えばまだ結婚とかは考えていないとか言っていたものね」
「え、ええ」
どうしてそんな話を持ち出すのだろう、何か探っているのではないか。
「し、島田先輩こそ、もう良いお歳なんですから考えた方が良いんじゃないですか」
取り敢えず話をはぐらかさなくてはと思った。
「そうね、でも、中々良い人に出会わないのよ」
「そんな事言っていたら貰い手なくなっちゃいますよ。贅沢に選り好みしていられる歳じゃないでしょう」
「あら、ご忠告ありがとう。あなたの言う通りね、でも私、仕事も楽しいのよ」
可南子は自分がどれ程失礼な事を言っているのかなどという事には全く頓着していない。というより逆にとても親切な助言をしてあげているかのように思っている。
「えー?仕事のどこが楽しんですか。先輩みたいに長く会社にいると色んな責任押し付けられてしんどいだけじゃないですか」
「そりゃ、責任は色々と重くなるけれどその分遣り甲斐も出来るし、上手くいったときの喜びも大きいわ」
「へえ、先輩って変っているんですね。私はそんな責任なんて背負わされたくないなあ。だって、所詮女ですよ、同じ年に入っても男の方が出世は早いし、女は腰掛程度にしか思ってない人の方が多いじゃないですか、そんなところでいくら頑張っても意味ないでしょう」
「そうかしら、ちゃんと見てくれている人はいると思うわよ。ほら、西村課長のように女性でもちゃんと昇進出来るのだから」
西村課長――あの人はとても女性のようには見えない。男性社員だって怖がっている人も多いくらいだ。あんな風にはなりたく無いと可南子は思っている。
「私はああはなりたくないです」
「あら、とても良く出来た方だと思うけれど。そりゃ、仕事には厳しいけれどとても部下思いで細かいところに気が付かれる方よ」
「そうですか?でも、やっぱり私は良いです」
「そう」
それっきり佳代子は話しかけてこなかったので可南子も喋らなかった。電車が付くと可南子は急ぎ足で会社に向かい、その足で商品管理部に向かった。この時間ならまだそんなに人はいない筈だと思ったが既に半数以上が出社していた。
(なんで、皆、こんなに早く出てきているのよ!)
これではあんな話は出来ない。今度はまた急いで庶務課に行き自分の机に座るなり内線を掛けた。幸いな事にすぐに長谷が出た。