「もしもし、長谷君?」
「あ、角田さん。おはよう」
可南子は回りの目を気にするように腰を屈めて声を落として話す。
「今、そっちに行ったのだけれど」
「何か用だったの」
「あ、あのさ、この間の、あの、夜の事…」
「あの夜の事?」
「だから、金曜日の晩の事よ、あれ、誰にも喋っちゃ駄目よ。まさかもう誰かに喋ったりしていないでしょうね」
「だ、誰にも言っていないよ、そんな事」
その答えを聞いて少し胸を撫で下ろす。
「ホントね、絶対、絶対。誰にも言っては駄目だからね、分かった?あれは二人だけの秘密よ」
「二人だけの秘密、わ、分かった」
可南子の言葉に長谷はちょっと嬉しそうな声を出す。
(何、勘違いしてんだか)
そう思いながら受話器を置いて可南子はそっと周りを見回す。
「何?秘密って?」
ギョッとして振り返るとすぐ後ろに啓子がいた。
「な、何ってなんでもないわよ」
「誰と話していたの?」
「誰って、あなたに関係ないわよ。プライベートな事なの」
「会社の内線使ってプライベート?」
「そ、そういう事だって偶にはあるわよ。何?人の話し盗み聞きしていたの」
「別に聞こうと思っていたわけじゃないわよ。中入ってきたらあなたがしゃがみ込んでいたから気分でも悪いのかって思ったのよ」
「別に、大丈夫よ。それよりどこから聞いていたの」
「どこからって、秘密ってとこしか聞いてないわよ」
「あ、そ、そうなの。なら、良いわ」
そう言うと可南子は啓子の視線を避けるように机に向かった。
「それにしても、今日はやけに早いじゃない。私より先に来ているの見るのなんて初めてなんじゃない。どういう風の吹き回し?」
「何、言っているの。いつもと変らないわよ」
「いつもと?へえ。じゃ、まあ、そう言う事にしておくわ。ところで、その足、どうしたの」
「足?」
そうだった、両足とも膝から下が擦り傷だらけなのだ。
「あ、そうそう、実はね、この間、歩道橋で誰かに突き飛ばされたのよ」
「突き飛ばされた?まさか」
「本当よ、歩いていたら背中を押されたんだから」
「ただぶつかっただけじゃないの」
「嘘じゃないわよ。絶対、あれは押されたのよ」
「被害妄想じゃないの」
「妄想じゃないわよ」
「だって誰が、どうしてそんな事をするの?あなた、誰かに恨まれているの?ああ、でも角田さんならそういう事も無くも無いかな」
「何よ、それ。どういう意味よ」
「だって、あなた何でも人のせいにするから恨んでいる人もいるんじゃないの」
「人のせいって何よ、私がいつそんな事したって言うのよ」
「いつって、いつだってそうでしょう。まあ、私はもう慣れたけどね。どうせ仕事以外では付き合う気ないから」
「随分な言い方じゃない。私はいつだって周りに気を使っているのに」
「は?本当にその神経には呆れるけど。あなたって本気でそう思っているのでしょうね。ある意味尊敬するわ」
朝っぱらから何だってこんな事言われなければいけないのだ。本当に啓子はデリカシーが無いと思う。怪我をしているのを見たらもう少し労わってくれても良いではないか。啓子はいつだってどこか可南子を見下しているように感じる。どうして可南子のように気遣いが出来ないのだろうと思う。まあ、啓子の言うように可南子だって啓子のこういう人の気持ちを逆撫でるような物言いには随分慣れたが。
「あなたみたいな人ってどこに行ってもあんまり人に好かれないよね。なんか、可哀相」
可南子がそう言うと啓子はちょっと目を見開いたが小さく肩を竦めるとそのまま席について仕事を始めた。
(本当の事を言い当たられたものだから反論できないのね)
可南子は啓子をちょっと言い負かしたような気分になった。その後、可南子は何度か長谷と話しをしようと隙を見つけては商品管理部の方に足を向けたがいつも人が沢山いて話をする機会が無かった。内線でごちゃごちゃ話せる内容でもない。人に聞かれても不味い。結局は次に長谷が誘ってくるのを待つしかないのかと思った。そして美味しい食事には行くが今度はあんなにお酒を飲まないようにしなくていけないと思った。人畜無害だと思っていたのに、やはり長谷も男なのだ。可南子のように魅力的な女性を前にしては理性を抑えられなくなるのだと思った。そう思うと自分の事を罪な女だと思わなくも無い。だからと言ってただで済ませる気は毛頭無いが。それから長谷が次に可南子を誘ってきたのは翌々週になってからだった。いつもより間隔が空いている。もしかしたらこのまま逃げる気なのではと何度も思ったくらいだ。勿論逃がす気などさらさらない。相当の見返りを貰わなければ気が治まらない。
次はいったいどんなご馳走が食べられるのかと考えながら歩いていた時、可南子は今度は社内の非常階段から落ちた。つるんとまるで足が何かにとられるかのように滑ったのだ。強かに腰を打って座り込んだまま上を見上げると滑った場所が濡れたように光っていた。
「痛ッ!」
「あなた、大丈夫?」
非常口の扉を開けて顔を出したのは西村課長だった。
「あら、何、これ?」
足元を見て西村課長は眉を顰めた。
「なんか、匂うわね、何かのオイルかしら?」
「オイル…?」