寧々の一瞬見せた陰りが和の瞼に残った。あの、一緒に居たくないとはどういう意味なのだろうと思った。父親が娘と一緒に居たくないなんて、寧々にも人に言えない何かがあるのだろうか、そんな事をふと思ったがその後の寧々はいつもと変りない様子だったので特に尋ねたりもしなかった。誰しも心の奥に何か抱えている物があるのかもしれない。
それにしてもあの寧々が自分で弁当を作っていたというのはちょっとした驚きだった。彼女はどんな家に住んでいるのだろうと思った。見たわけでもないが何となく広い大きな家に住んでいそうな雰囲気がある。その広い家にいつも一人で過ごしている。朝、一人で起きて朝食の支度をして弁当を作り、一人で食べて、夜も一人でそうやって過ごしている。喋る相手もなく大きなテーブルで一人ぽつんと。どんなテーブルで食事しているかなんて知る由もないのにそんな寧々の姿が頭に浮かんだ。
「どうかしたの、和ちゃん」
夕食時、そんな事を考えながらぼんやりと箸を運んでいた和は叔母に声を掛けられて我に返った。
「あ、ううん。何でもない」
「何か、考え事していたみたいだけど学校で何かあったの?」
「あ、そうじゃなくて、ちょっとクラスメイトの事を考えていたの」
「あら、珍しい。仲の良い子なの?」
「そいうわけじゃないけど。ちょっと前に転入してきた子なんだけど、帰国子女でちょっと変わっているの」
「変わっているってどんな風に?」
「多分、外国暮らしが長かったせいだとは思うんだけど、なんか思った事すぐ口にするの、遠慮がないって言うか」
「でもはきはきしているのは良いじゃない。明るい子なんでしょう」
「そうだけど、何か傍若無人って感じ。人の気持ちお構いなしだし」
和がそう言った時叔母がクスッと笑った。
「その子の事、気になっているのね。和ちゃんがお友達の事そんな風に言うの初めて聞いたわ。案外そういう子が和ちゃんには合うのかもよ。良いお友達になれると良いわね」
「まさか!」
反射的にそう答えたがその言葉と同時に昼に寧々が言った「私達、似ているから」という言葉が頭を掠めた。
「似てなんて、全然、そんな事ない」
心の中で言ったつもりだったのに声に出ていた。
「何?似ているって、何の事?」
「あ、えっと、彼女もお母さんがいないって言っていた。でも私は叔母さんがいてくれているから全然違う。叔母さんは私にとってお母さん、ううん、お母さん以上だもの」
「和ちゃん…」
和の言葉に叔母は目を潤ませている。本気でそう思っているが今、ここでこんな事を言うつもりはなかった。寧々のせいで本当に調子が狂ってしまうと本気で思う。
「でもその子、お母さんがいないのにそんなに明るいなんて強い子なのね」
「あ、うん。それはそう思うけど。お父さんも仕事忙しくて殆ど家にいないから家ではずっと一人だって言っていた」
「あー、だから和ちゃん、その子の事気にしていたのね。そうだわ、なら今度うちに連れていらっしゃいよ」
「え?」
叔母の予想外の言葉に和は目をぱちくりさせてしまう。
「だって、和ちゃん、一度もうちにお友達連れてこないから実はずっと心配していたのよ。友達出来ないのじゃないかって。中学の時も先生に尋ねた事あったのだけれど、特にクラスの皆と仲が悪いという事はないから心配ないと言われて、高校に入ったら誰か仲の良いお友達が出来るかと思っていたのに変わりなくて」
「わ、私、別にその子と特に仲が良いわけじゃないから、」
「でも気になっているのでしょう。それにいつも一人なんて可哀想じゃない。うちで一緒にご飯食べましょうよ」
「そ、そんな事、急に言われてもその子も困ると思う」
「そうかしら、兎に角、一度誘ってみてよ。叔母さん、和ちゃんのお友達に会いたいわ」
「だ、だからその子とは別に友達ってわけじゃ、」
「ねえ、その子、何が好きかしら。聞いておいてね、叔母さん、腕ふるっちゃう」
叔母は嬉しそうに目を輝かせている。叔母は母と違って無邪気で少女のような人だ。叔父と叔母は随分と年が離れていて叔父はそんな叔母をとても愛おしそうに見ている事がある。和は二人のそんな様子が結構好きだ。子供の時からこういう両親のもとで育ったのなら和の人生はきっともっと違っていただろうと思わずにはいられない。和はここにきて初めて家庭の安らぎというものを知ったような気がする。そう思うと、いつも広い家に一人で過ごしているであろう寧々にこの家の雰囲気を味合わせてあげたいなどとチラッと思った。実際に広い家でポツンと過ごしているのかどうかなどと知らないのではあるが。
「…来るかどうか分からないけど聞いてみるわ」
そして、ついそう返事してしまった。
「ほんとね、楽しみ。絶対よ、約束だからね」
叔母は浮き浮きした様子でそう答える。頭の中はきっともう何を作ってもてなすかとか考えているのだろうなと思った。叔母のこの無邪気さは和にとって救いでもある。叔母の傍にいると優しい気持ちになる。それは母が生きていた頃からそうであった。叔母夫婦に子供が出来ないのはどうやら叔母が原因らしい。昔、母がそんな風な事を言っていた事がある。一時期は叔母もその事を気にして叔父に離婚を申し出た事もあったそうなのだが叔父は断固としてそれを受け入れなかったらしい。子供の時はあんまりその事を深く考える事はなかったが高校生となった今、和は叔父の叔母に対する深い愛を感じる。それは叔母にとってもきっと色々葛藤はあったに違いない。それでも叔父の愛を受け入れて今を楽しく生きる事にしている叔母の生き方にも共感出来るものがある。和にとって叔父夫婦は理想の夫婦である。和には一生手に入らないものではあるが。
翌朝、いつものように寧々が和と同じ時刻の電車に乗って来た。
「Good morning 和」
「おはよう、紫園さん」
和がそう答えると寧々は深い溜息を吐いた。
「やっぱり、紫園、さんか。クラスの女子で私の事、名字で呼ぶの和だけだよ」
「そう」
「冷たいなあ、和は」
「クラスの女子で私の事名前で呼ぶのも紫園さんだけよ」
和の返しに寧々は笑った。
「そっか、じゃ、お互いおんなじだ」
和は昨日の叔母との話をどう切り出そうかと思った。いきなりうちに食事に来ないかというのもやはりおかしいと思える。実際にそんなに親しくはないのだ。叔母には誘ったけど断られたとでも言おうかと思う。
「何?」
そう思っていたら寧々が顔を覗き込むようにした。
「何か、言いたい事がありそうだけど?」
こういう時、寧々は本当に勘が良い。
「あの、実は…」
やはり言い難い。正直、寧々を家に呼びたいという気持ちなど殆どないというのもある。関わりたくないと思っているのにどうしてこんな展開になってしまったのかと思う。
「何々?」
寧々が顔をさらに寄せてくる。和は思わず溜息を吐く。
「叔母さんが…叔母さんが紫園さんをうちに招待したいって」
「え?」
「あ、良いのよ、断って。そんな、親しくない人の家になんて来たくないものね。断っても全然気にしないから」
「そりゃあ、勿論行くよ!」