一瞬、空気が固まったかのような気がした。寧々は今何と言ったのだろう、自分の耳を疑わずにいられない。
「な、何言ってるの?悪い冗談…」
「本当だよ」
「そ、そんな事あるわけが…」
「だよね~、嘘に決まっているじゃん」
そう言って寧々は笑った。和は胸を撫で降ろすがその寧々の瞳の奥に暗い影が過ぎっているように見えた。今迄見た事がないような寧々の表情、そしてそれはどこかで見た事があるような表情。その顔が和の脳裏に深く残った。
「でも、妹が死んだのは本当。ずっと小さいときね」
「そうなの…」
寧々は何の為にあんな事を言ったのだろう。和がどんな反応をするか見て楽しんでいるのだろうか、何か試されている様な気がする。寧々が和に近づいてくるのはやはり何かあるように思えてくる。
「和はない?」
「何が?」
「人を殺した事」
そう答えると寧々は和の顔を真っ直ぐ見て口の端をニッと持ち上げて笑みを作る。その顔は何処か奇妙に映る。
「何、言ってるの、そんなの普通ないでしょう。あったら今、こうして普通に学校になんて行けないじゃない」
そう答える和の脳裏にある光景が過ぎる。
「ま、そりゃそうだね。でも完全犯罪が出来れば、ありでしょう」
「完全犯罪?いったい、何言ってるの?」
「何って?」
「何か意味があってそんな事を聞いてるの?」
和の問いに寧々は笑う。
「え~、やだ、何でそんな怖い顔しているの。なんにも深い意味なんてないよ。ちょっと聞いてみただけ。私、ミステリーとか好きなんだ。サスペンスドラマとか見ているとあ~、これじゃばれちゃうよってもうはらはらしどうし。だから完全犯罪とか興味あるんだ。私ならこうするのにとか思って見ちゃう」
さっきの表情とは打って変わって浮き浮きした様子で寧々は話す。
「サスペンスドラマ…」
寧々は本心を語っているのだろうか。
「私、人を殺そうとした事ならあるよ」
和はそう言って寧々をじっと見る。寧々がどんな反応を示すか見たくなったのだ。
「どうやって?」
寧々は全く表所を変えず笑顔のまま聞き返す。特に驚いている様子もない。
「こうして、包丁を握って、」
和は包丁を持つ真似をする。和の頭の中に山下に襲われた時の事が浮かぶ。
「刺し殺そうとしたの、凄い!」
寧々は楽しそうだ。
「凄いって…人を殺そうとしたのよ。分かってる?」
こんな話をされたら引くのが普通じゃないかと思う。
「だって、その相手は和に酷い事をしたのでしょう」
寧々は和を真っ直ぐ見て答える。やはり何かを知っているのか、でも、どうして。寧々がそんな事を知る術はない筈だと思う。
「どうして…」
「だって、そうでないと和がそんな事をする筈ないもん」
寧々はあっけらかんとした顔で答える。まるでそんな事は大した事でも何でもないとでも言うかの様に。
「で、殺せたの?」
「そう出来たら良かったけど…」
和は視線を落として答える。何度、この手であの男を殺したいと思ったか知れない。でも結局は出来なかった。それどころかあの男の顔を見るだけで恐怖が先に立ってしまって和は逃げてしまったのだ。
「そう…出来なかったの」
寧々はとても残念そうな顔をして答えた。何だろう、この表情の変化は、まるで和が人を殺していたら良かったのにとでも言いたげな感じに見える。それとも寧々にもそんな経験があるのだろうか、誰かを殺したいと思った事が。だからこんな事を聞いてくるのだろうか。
「紫園さんは誰かを殺したいと思った事があるの」
「あるよ」
和の問いに寧々は何の迷いもなく答えた。今日の寧々は普段見ている寧々とはどこか違う感じがする。
「殺したの?」
そんな事ある筈もないが思わず聞いてみた。その問いに寧々は首を横に振る。
「残念ながら…いつかはって思っていたけど思いは叶わなかった」
「叶わなかった…?」
そう聞き返した時に叔母が紅茶とクッキーを乗せた盆を持ってやってきた。
「あ、なんか、凄い良い匂い」
紅茶の香りに寧々が鼻をヒクヒクさせる。
「カモミールティーよ。最近ハーブティーに凝っているの。紫園さんが嫌いでなければ良いのだけれど」
「大丈夫です。私、好き嫌い全然ないんで。この匂い凄く好き」
「良かったわ。こちらのクッキーはおもたせですけど。私、さっき一つ頂いちゃったわ。あんまり美味しそうだったから。紫園さんとても上手ね」
「ありがとうございます。そう言って貰えると嬉しいです」
「じゃ、夕飯迄ゆっくり寛いでいて下さいね。もし遅くなりそうだったらおうち迄主人が送るって言ってますし。おうちの方に私からお電話入れさせて貰うから」
「大丈夫です。父はどうせ家に居ませんから」
「あら、日曜日なのに?」
「あの人、仕事忙しいみたいで」
「そうなの」
叔母はちらっと和の方を見てそのまま部屋を出て行った。
「お父さん、今日もいないの?」
「うん。もう一ヶ月以上顔見ていないかな。あ、でも慣れているから全然平気だよ」
「前に、お父さんはあなたと一緒に居たくないって言っていたけれど、あれってどういう意味?」
「どういうって、そのまんま。言葉の通りだよ」
「お父さんと上手くいっていないの?」
「うーん、そういうんじゃないかな。でも仕方ないし、お父さんの気持ち分かるから」
「気持ちって?」
「さっき、妹が死んだって言ったでしょう。私が殺したんじゃないって言ったけど、でも妹は私のせいで死んだの。だから実際は私が殺したようなものなのよ。お父さんにとって妹は掛け替えのない娘だったから。きっと私が傍にいるとその事で私を責めてしまうと思って一緒いないようにしているの。本当はね、凄く優しい人なの、優し過ぎるくらい優しい人なの」
そう言って笑う寧々の顔が和にはどこか泣いているように見えた。
<伍拾弐へ続く>