・・・・・・・っということで、ぼくのサラリーマン人生の中で、一度だけ「始末書」を書いたことがあります。
いや、意に反して書かされたというほうが正しいでしょう。
本来ならぼくは褒められるべきだった。
だって、その受注によって会社に莫大な利益をもたらしたのだから。
ところが、利害が反する某顧客から横槍が入った。
複雑な経過は省略するけれど、顧客とぼくが天秤にかけられ、会社は顧客のほうを取ったのです。
正義は明らかにぼくにあったのに、会社はぼくを守ってくれなかった。
守るどころか、顧客の怒りを静めるために、ぼくに始末書を書かせたのです。
要するにトカゲの尻尾切りですね。
そこで、ぼくは悩みました。
悪いことをしていないのに、謝らなきゃならないからです。
それも文章に残して。
そこで、ぼくが書いた始末書です。
ぼくの営業によって【結果的に会社に迷惑をかけた】から謝罪しますという内容です。
お分かりのようにぼくは自分の非を認めていません。
ぼくは、こんな内容で会社が納得するとは思わなかったから、書き直せと言われると確信していました。
ところが、それは命じられませんでした。
その受注を最後にぼくが営業を担当していた部門は解散させられ、ぼく以外の部員は会社に愛想をつかせて去っていきました。
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長々とぼくの経験を書いたのは、今回の日大の謝罪会見を見て思い出したからです。
監督も、コーチも、そして学長も冒頭に深々と頭を下げて、「謝罪」しています。
ところが、何に対する謝罪なのかサッパリ分からない。
自分の非を認めるから頭を下げたのに、いろいろと言い訳をして自己防衛に走っている。
結局アンタら、謝罪していないじゃないかというのが正しい感じ方でしょう。
それに比べ、反則をした学生の謝罪はきちんと謝罪になっていました。
誰に対し、何の非に対する謝罪なのかはっきりしていたからです。
「とにかく頭を下げておけ」という日本独特の文化をここに見せ付けられるのです。
【結果的に世間を騒がせた】からというのが謝罪の理由に成り得る社会なのです。