姉にも言えない。第二稿。惨劇(途中まで)。 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

 惨劇。

 それは僕が中学二年生の時のある日の夕食時、唐突に何の前触れもなく発生した。
 そこから、世間と、もっと言えば僕以外の世界と、僕の姉さんに対する認識は食い違うようになった。ちぐはぐになった。
 その日。僕の気付く前に全ては始まっており――気付いた時には全て終了していた。
 まず、僕が覚えているのは姉さんと母親が料理の支度をしている光景だ。いつもは面倒くさがりで、料理の手伝いなんてしない姉さんだけれど、その日は機嫌がよかったのかなんなのか、母親の手伝いをしていた。
 作っていたのは普通に和食だったはずだ。味噌汁や煮物を含む、ごく一般的な料理が我が家の食卓の普段からの品目で、勿論、たまにカレーなど、日本料理に取り込まれた外国料理だって登場することもあるけれど、基本的に我が家は和食。その日もだから和食の支度だったのではないか、と、「あまり熱すると味噌の味が飛ぶ」というようなそんな母親の姉さんに対する注意も聞いた覚えがあるのだが、しかし、それはことが終わった後の記憶とは著しく食い違う。
 とにかくここでは何の料理だったか、ということは置いておいて、話を進めよう。
 僕の記憶では、その時、料理は完成間近でそろそろ食卓にお皿を運んで、食事を始めようという段階に入っていた気がする。僕は配膳の手伝いをするために、既に食卓についており、声が掛かるのを待っていた……はずなのだが、そこで突然、僕の記憶は途絶える。
 ぷつん、と、まるでテレビの電源をリモコンで落としたかのように断線する。
 そして、次に僕が目を覚ました時には、何故か食卓には中華料理が並んでいたのだった。僕は、美味しそうな夕餉の香りに気付かない内に居眠りでもしてしまっていて、今、寝ぼけたまま夢の続きでも見ているのだろうか、と最初に思った。
 二番目に考えた可能性は、姉さんに睡眠薬でも盛られていて、これは姉さんの仕掛けたある種のドッキリなのではないか、という可能性だった(姉さんはそういう、ちょっと日常のおふざけという段階は通り越している感じの、若干犯罪臭の漂うような悪戯を、まるで顔色を変えずにやってしまうところがあった。彼女の常識というブレーキは、ぶっ壊れているのだ。姉さんにはアクセルしかない)。
「うーん? 何なのこれ」
 その声を発したのは、僕ではなく母親だった――それは僕が聞きたいところだったのだけれど、母親も眠そうな目をしているところを見ると、彼女も寝起きなのかもしれない。いよいよこの悪戯は、姉さんの仕業であるという可能性が高くなった。
 しかし、「何なの」と言いたくなる気分もわかる。それくらいの絢爛な有り様だった。
 満漢全席、という言葉が、満漢全席を一度も食べたことも見たこともない僕の脳裏にふと浮かんでしまうくらいの、中華料理の品数だ。
 実際の満漢全席はもっと凄まじいものなのかもしれないけれど、取りあえず中華料理屋の人気メニューを全部並べましたといった風情で、青椒肉絲、蟹玉、八宝菜、エビチリ、水餃子、麻婆豆腐、肉まん、炒飯といった料理が十皿並び、しかも、炒め物はすべてファミリーサイズの大皿である。家族の人数に対しては少し広めだったはずの食卓のペースを全て埋めてやろうかというように、所狭しと乗っている。
 それぞれの席の前には、軽く盛られた炒飯が取り分けられ、色の透き通ったスープが置いてあった。
 それは食卓もこれだけ皿が並べられれば本望だというような感じで、僕はここまで我が家の食卓がフル活用されていることを見たことがなかった。その様子は、誰かの誕生日だとか、何らかのパーティのようなものを僕に連想させた。
 いつもレトルトや買ってきた惣菜だけで済ませるような家族ほどではないだろうけれど、しかしそれほど料理に凝っているほどでもない佚里家において、おかずの皿は主菜、煮物、サラダ、揚げ物の四皿が出ればそれでごちそうという雰囲気だったのに、これは明らかに異常だった。
 父親は仕事でいつも帰りが遅く、彼の分だけは台所に取り分けておき、僕と姉さんと母親の三人で夕食は取ることになっていたのだが、この量は三人でも、父親を含めた四人でも到底食べきれそうにない。十人いても十分満腹にすることができそうな量だ。
 それにしても、この中華料理は出前でも取ったのかと思ったのだけれど、よく見てみるとこれ、全部我が家の皿が使われているな……まさか、全部一人で作ったとでも言うのだろうか。
 姉さんに料理が得意というイメージはないんだけど……と、僕は仕掛け人たる彼女を探すことにした。
 食卓の姉さんの定位置の席は、あたかも直前にまで彼女が座っていたかのように引かれており、炒飯がレンゲ一口分だけ減っていた。
 その演出とこの突然出現した中華料理というシチュエーションは、あのマリー・セレスト号における乗組員の消失を、想起させなくはないけれども、しかしこうも仕掛け人がはっきりとしているとなると、その不気味さも半減である。
 僕はお手洗いを確認し、姉さんの部屋を確認し、ベランダを確認し、浴室を確認し、それでも姉さんの姿は見つからず、もしかして外出しているのかと、悪戯についてはちょっと手が掛かり過ぎているんじゃないか、と、少しだけ心配になってきたところで、僕は一度居間に戻った。
 母親は未だに定まらない視線のまま、
「ねえ……一対。あそこにあるのって、なんなのかしら?」
 と言った。
 僕はまだ寝ぼけているのかよ、と思ったが、しかし母親の目線の先を確認して。
 一気に僕自身も思考停止に追い込まれた。
 それは例えば、刑事ドラマにおける犠牲者を表す、死体の形の白いロープのようなものを僕を連想させる。
 人の形。
 床に影のように、人の形が存在した。
 こびり付いていた。
 それを認識した途端に、僕の鼻は、明らかに中華料理とは別の異臭を嗅ぎとる。焦げ臭い、肉が焼けるような――同時に水っぽく、生々しい、肉が饐えて腐ったような、嗅いでいるだけで嘔吐感が込み上げる臭いだった。
 なんだ――なんなんだ? これは。
 それは散り散りの断片だった。皮膚の表面を少しずつスライスして撒いたような、脂肪と肉を削ぎ取ってデコレートしたような。焼け残った骨の断片。もう何かもわからない白いもの。
 そして、あれは焼け焦げた姉さんの今日の服の……切れ端か?
 それが――それが人の形を、まるで、少しずつ存在することによって、足りていない部分を連想させるような。
 人間の衣服を含む身体の痕跡が――。
「な、何だっていうんだっ、これは、これはっ――」
 呼吸がうまくできなくなった。
 脳味噌は意味不明なこの情景に対して、何らかの意味付けを行おうとするが、僕の感情的な部分は全力でその答えに至るのを遠ざけたがった。
 こんな現実なんて飲み込みたくなかった。
 そして、まるで他人事のように、僕は。
 誰かが脳内で囁くかのように。
 誰かをフローリングの上に寝かせ、ミキサーのような刃で細かく裁断し、その上で人間の身体を蒸発させるかのような、ピンポイントな莫大の熱量をかけて。そんな僕には想像するしかない未知の爆弾のようなものを炸裂させたとしたら。
 こんなフローリングの痕跡が残るのかなと。
 思ってしまった。
 あまりに馬鹿げた妄想だ。非科学的な想像だ。
 だって、そんなことが――ありえていいはずがない。
「そんな馬鹿なことがあるはずがないよね……」
 だって、姉さんが。
 僕の――姉さんが。
「――だって、姉さんが死ぬはずがない」
 そう呟かなければ、確認するように言わなければ、もう僕の方の呼吸が止まって死んでしまいそうな気がした。原因不明の心臓発作とかで死にそうだった。
 母親はその姉さんの痕跡らしきものを見ると、僕以上にパニックに陥ったような状態になり、すぐさま警察に電話をした。
 しかし、警察が到着してもなお、僕に現実感が戻ってくることはなかった。
 やがて、事情聴取が僕と母親、別々に行われ、その途中で父親もどうやら帰宅したらしい。
 僕は、寝起きに中華料理が満漢全席のように並ぶのを目にする前に、眠りに落ちる前に、姉さんと母親がいつも通りの和食を作っていた記憶を話したが、母親の方はどうやらそんな記憶はないと答えたようで、その話は真偽不明でうやむやになってしまった。
 あの記憶はどこまでが本当だったんだろう? 中華料理は姉さんの悪戯だったのか? それともこの事件における犯人のパフォーマンスだったのか? それすらもわからない。
 警察はその事件当日には姉さんの死因は特定できないというようなことを言って、一旦引き上げていった。連日の現場検証の後、事件から三日目の朝から訪れる刑事の顔ぶれが変わった。
 その刑事たちはスーツを来ていなくて、それまで来ていた刑事とは雰囲気を異にしていた。
 彼らは一様に青いレンジャースーツのような制服を身にまとっており、例外事象特殊班を名乗った。
「私は班長の幅取来良(はばとり・きるら)という者です。この事件は我が班の預かりということになります――この事件についての詳細、私たちの班についての情報は、基本的にこの場限りの情報漏洩禁止事項とさせていただきます。まずは、この書類にサインをすることから始めてもらいましょうか」
 それはスタイリッシュな眼鏡を掛けている細身の男だった。やたら気取った喋り方をしていて、頭脳派という印象だった。
 家を訪れた特殊班のメンバーは三人。幅取さんの他にはまず、やたら長身で頭を色々なところにぶつけそうになる、寡黙な大男の大禅(たいぜん)さんがいた。彼は色が黒く、髪を角刈りにしていて、たまに喋るその声はとても渋かった。
 もう一人は御柱魅李之(みはしら・みりの)さんという、おっとりとした女性だった。姉さん以上に、その、なんというか胸が大きく、ボリューミーな黒髪を持っていた。
「この事件を一般の刑事が担当できなくなった理由は、今回の殺人事件が、通常ではありえない凶器によるものだからです」
 その凶器こそが、超能力というものなんです――と、幅取さんに続く、あたかも反応を気にしたかのような、御柱さんの発言で、僕は生涯の内で初めて、現実に超能力という単語を耳にすることになる訳だが――正直その時の僕にとって、そんな言葉は興味の対象の外だった。
 それより何より、姉さんの関わるこの事件が、失踪事件ではなく殺人事件として扱われ始めたことに、僕の心は急速に閉ざされ始めたのだった。

 人肉。最後の晩餐。姉回想。
 この班のスタンスとか、超能力についてとか? そういう話と主人公の思いだよね。そこら辺を書いていきたいかね。かなり初回部分を書くのがキツくなっちゃってきているんだけれど、どうしたらいいんでしょうかね。