本当に姥捨て山があったかどうかは知らないが、生活苦からとすれば実態としてそれに近いことはあったのではないかと思う。今では捨てるという表現は露骨過ぎるかもしれないが、老親を世話しない(できない)家族が増えている。
Aさんは八十五歳、高血圧症と糖尿病があり高血圧症の妻と一緒にもう十年近く通院されていた。四、五年前から認知症が出現、もともとあった難聴が進行し、だんだん意思疎通が難しくなってきた。長く家族経営の食堂をやっておられ、二年くらい前までは慣れたコロッケ作りの下準備だけはできていたらしい。
だんだん徘徊と失禁が出てきて、大変ですねと申し上げていた矢先、紹介状を所望されグループホームへ送られた。奥さんは特別冷たい方というわけではないと思うが、仕事に差し支えるとご長男と相談して決められたらしい。
「どうされていますか」と問えば、「家に帰りたい、帰りたいと言ってます。娘や次男は家に置いてやれって言いますがね、一緒に住んだことがないからね」とにべもない。「そうですか」と頷くよりはない。自分としては度の強い眼鏡を掛けどこか愛嬌のあるAさんが見知らぬ施設で途方に暮れているのが思い浮かび、ちょっと可哀想な気がした。
施設にも色々個性はあるが、認知が進行した患者さんは意思疎通が難しくなり最後はほとんど寝たきりで食事だけ食べるような状態になってしまうので、介護の個性も薄れる。家族も様々だが、訪問回数は徐々に減る傾向があり、中には診療や治療を余計なことと電話で断られるご家族も居られる。
就活に婚活についで終活などという言葉が出てきた。薄っぺらく便宜的な響きがあり好まない言葉遣いだが、現実を切り取っている。家族に見守られ眠るように終われるのは僥倖かもしれない。