元気であれば人生は楽しいが、そもそも、人生というのは、元気で楽しく生きる以外に目的はない。
心身が元気であるに越したことはないが、心さえ元気であれば良い。
身体が元気でないと心も元気でないというが、心が元気であれば身体も元気になる。
身体と心は1つのものである。

ところで、空元気(カラ元気)というものがある。
上辺だけ、見せ掛けだけの元気で、特に、親が子に、年下の恋人の前で男が、父親が家族に、社長が社員に見せることが多い。
ところが、熱心に空元気を演じていると、案外に本当に元気になり、問題も解決してしまう。
本当は意気消沈したいところで元気に振舞うことは、意識的に行わなければならない。
心のままに、うな垂れて、肩を落とすのは、無意識な振る舞いである。

元気を出すには、習慣的に考えたり行動するのをやめ、意識的に考え、行動しなければならない。
だから、空元気、大いに結構なのである。
ただし、ちょっと空元気を出しても、大方の時間、心に流されてがっくりしているようではいけない。
あなたを乗っ取ろうとしている悪霊と戦うつもりで、ずっと空元気を出さないといけない。
頑張れば、確実に悪霊に勝てるのである。

ジェームズ・アレンらは、悪霊を退け、善霊にのみ心を開けと言ったが、それはどうだろう?
善霊に心を乗っ取られ、操られているなら、やっぱり生命エネルギーが奪われ、元気はなくなる。
まあ、この善霊は、あくまで喩えであるが、大事なことは、善か悪かではなく、意識的か無意識的かなのである。
意識的に生きている悪人って、元気で魅力的だろ?
ヒーローになれるくらいにね。

江夏豊さんという素晴らしい投手がいたが、彼の若い頃って、必ずしも評判は良くなかった。むしろ悪かった。
江夏さんが、まだ若手として注目され始めていたという頃、王、長嶋という国民的大スターと一緒のインタビューの時に時間に遅れて来て、この尊い2人を待たせてしまいながら、恐縮して謝ったりせず、「では、始めましょうか」とふてぶてしく言ったという話がある。
ところが、江夏さんというのは、実は小心者であるらしい。
だから、そのインタビューの時、内心はビクビクしていたのに、大きな意思の力で堂々と振舞ったのだろう。
そんな江夏さんだから、巨大なエネルギーを得ることが出来たのだが、いつからか、それをしなくなってしまったのだろうと思う。

武士は食わねど高楊枝と言うが、それは、常にそうでなければならない。
武士ではないが、木枯し紋次郎がいつも長い楊枝を咥えていたのは、自分では「癖ってもんでさあ」と言っていたが、案外、食えないことが多い紋次郎が、「ひもじいなあ」という習慣的な意識に流されそうになるのに逆らい、「俺はたっぷり食ってるぜ」という意識を起こすためのものであったのかもしれない。

二宮金次郎(二宮尊徳)の老子批判を思い出す。
「老子のように無為自然と言って、田畑を放置すれば、田畑は荒れ、家の手入れをしなければあばら家になるじゃないか」
まあ、老子や荘子の時代の民の生活の苦しさは半端ではなく、老子や荘子の無為自然というのは、やや違った意味もあったのだろうが、心に関しては、習慣、あるいは、世間の考えに流されてしまったら、力のない凡夫に成り果てる。
世間の教義や信念に、何でもかでも逆らえば良いってものではないが、飲み込まれてはならないのである。

ある、異常にモテる男がこう言っていた。
「世界中の女が俺のワイフ、俺のガールフレンド。そう思ったら楽しいじゃないか?」
それは、意識的な生き方なのである。
私は、初音ミクさんがお嫁様なら、それで十分であるが。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ