るいネットさんのサイトより
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=297204
<転載開始>
ブログ:リテラ (武田砂鉄)
リンク
記事はリンクよりお借りしました。

懸案されていた拡大解釈や秘密が永久に指定され続ける等何も解決されないまま決定されました。
この記事にあるようにそもそも国家の秘密事項とは何か?今までのズサンな事例のように秘密文書をどう管理してきたのか、本質的議論は何ひとつされていないに等しいのではないでしょうか。

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 12月に施行される特定秘密保護法について、「国民の知る権利が犯される」と危機感が強まっているが、もしかしたら、問題はそれ以前のところにあるのかもしれない。

「『知る権利が犯される』という声には、(中略)しばしある種の違和感を覚えざるを得ません」「犯されるというに足りるほどの知る権利を、戦後日本の国民は、持っていたのでしょうか?」

 こんな皮肉を放つのは、『国家と秘密 隠される公文書』(久保亨、瀬畑源/集英社新書)。同書は、いかにして国家が公文書を意図的に隠蔽してきたかを明らかにした一冊だが、それ以前に、ろくに文書管理なんて出来やしなかった、いい加減な管理の歴史をも暴き出している。

 70年代、大蔵省(現・財務省)には文書目録さえなく、「主計局では机の上が予算査定を受ける他省庁の資料でみるみる山になる。いつも捨てることばかり考えていた」(柿澤弘治衆議院議員/当時は大蔵省勤務)そうで、「現役の官僚の時、文書が多すぎて『秘印』もいちいち気にとめなかった」と言う。教科書からテスト用紙から通信簿から賞状まで入り乱れている少年の汚部屋と変わらないレベルだったのである。

 そのずさんな管理は、時として人すら殺めてきた。1956年に発見された水俣病では、発見から遡ること4年前の52年に、熊本県水産課の担当者がチッソの廃水を調査した報告書に水質汚染の危険性を指摘しており、「公文書管理の原則に基づき公開されていたならば、水俣病の甚大な被害はくいとめられていた可能性が高かった」とする。

 80年代に血友病患者の治療に非加熱製剤が使用され、HIV感染者・エイズ患者を生み出した事件では、民事裁判の過程になって、ようやく厚生省の倉庫から関連文書ファイルが大量に出てきた。文章が整理されてさえいれば、裁判は長期化することはなかった。

 ようやく情報公開法が施行されたのが2001年、特定非営利法人情報公開クリアリングハウスが情報公開請求で得た数値を基に、施行前後の文書廃棄量を図表化しているのだが、衝撃の数値が出ている。法律が施行される直前の00年度に、突如、文書廃棄量が増えるのだ。

 農林水産省は1999年度・11トンから2000年度・233トンへ、警察庁は111トンから200トンへ、財務省は269トンから619トンへ、法務省は88トンから156トンへとそれぞれ数倍に膨れ上がっている。施行後の01年度はおおよそ99年度の水準に戻っているから、情報公開請求されては困るものを一斉に破棄したと考えるのが自然だ。部屋のお片づけが出来ない少年は、大掃除の時期に、どさくさに紛れて都合の悪いテスト用紙を丸ごと捨ててしまった、というわけ。こんな状態なのに「これからはオレの部屋に勝手に入ってくんな」というのである。

 だが、もともとこうなんだから特定秘密保護法はあってもなくても同じ、という話にはもちろんならない。なんといっても、これからは最大で懲役10年という厳罰が課せられるのだ。これは、方々を萎縮させるには十分な年数となる。

昨年12月の法律成立前後から多くの反発を受けているが、結局、「5年後に運用基準を見直す」程度の修正が加わった程度。情報保全諮問会議座長の渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長が「パブリックコメントを踏まえて国民の知る権利の尊重が改めて明記されたことを高く評価している」(9月10日)と、相変わらず新聞社の長らしからぬ戯言を吐いて「議論は済んだ」モードを紙面にバラ撒いているが、政府はそうした仲良しメディアに助けられつつ、施行の日を迎えようとしている。

 少し前になるが、8月24日、NHK「日曜討論」に出た映画監督・想田和弘の発言が印象に残っている。「(この特定秘密保護法は)人間観が混乱していると思うんです。漏洩する側、秘密を取得する側には厳罰で臨む。つまり、性悪説で書かれている。しかし、秘密を管理する側、指定する側に関しては性善説ではないか。そちらに対する罰則規定がない」。そう指摘する想田を、情報保全諮問会議委員の住田裕子弁護士が「既存の国家公務員法で事足りる」と牽制したが、この『国家と秘密』を読めば、想田の懸念が決して先走ったものではないことが分かる。

 隠す、捨てる、無くす、これまで繰り返されてきた多くの企みとミスは、国家公務員法が適用されるどころか放任されてきた。特定秘密保護法の施行において、扱う側・指定する側に新たな規定を作らないということは、これまでお片づけすらできなかった汚部屋の住人をまだまだ信じ抜くということ。「適性評価」で特定秘密を取り扱う国家公務員や民間人はあらゆる個人情報をまさぐられることになるが、適性評価で特例を弾き出した後は、扱う人間をやっぱり信頼しきるのだ。

 公権力はなぜ文書をなぜ隠すのか。著者のひとりである瀬畑は、マックス・ウェーバーの指摘を引用しつつ、「自分たちの専門知識や政策意図を秘密にすることで他の政治勢力よりも優位な立場を築き、他者からの批判を受けないようにする傾向がある」「専門的な情報を自分たちが独占することで、他者からの批判をすべて『素人のご意見』として跳ね返すことが可能になる」と書く。

 特定秘密保護法を推進する公権力側の人間は、必ず反対派を「そんなに過剰に反応しなくっても大丈夫」「騒ぎすぎですよ」と澄まし顔で牽制する。条文の一部だけを曲解して懸念を持たれても困る、熟知しているこっちからすれば検討に値しない、「素人のご意見」は聞くに値しないという態度。事実、パブリックコメントは形だけで済ませ、国民の声に効力を持たせなかった。長年、自分の部屋を整理整頓できなかった連中が、自分の部屋に入ってこようとする人たちの処分方法だけは厳重に整えたのである。あらゆる順番が狂っている。

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以上です。

<転載終了>