黄砂情報が出たので好天ながら山行きは止めにして渋川へ花見。
最初は渋川市寄居の正蓮寺の牡丹。
渋川四つ角を左折(西)して三つ目の一方通行の細道へ、信号で再び右折して道なりで
駐車場。この正蓮寺は「渋川城址」でもある。
渋川城は、正蓮寺境内とその西側の住宅地一帯に築かれていたとのことで
寺の境内に城跡碑が建てられている。
寺の北側は一段低く、東側には用水路となっている堀跡が残り。
西側の民家敷地南側には深い堀と土塁や堀切となっているとの解説、渋川城は、
元亀3年(1572年 信玄対家康の三方ヶ原の戦いの年)に 信濃から
吾妻経由で西上野へと侵攻した真田幸隆ら武田勢が白井城の
長尾憲景を攻めるた際に、武田方に与した渋川地衆によって築かれたと伝わる。
この戦いでは長尾憲景は、八崎城から出撃して武田勢を破ったと伝えられているが
八崎城とは北橘の利根川左岸の河岸段丘端を利用して築かれた城。
丁度、分郷八崎公民館から南側一帯が城跡。
寺を辞して四つ角に戻り東進してR-17に出て鯉沢バイパスで白井宿。
子持ち道の駅があるので大駐車場も満車に近く大勢の観光客が
八重桜の並ぶ堀端や白井宿見物に繰り出していた。
花の具合は手っ取り早くデジブックで。
デジブック 『渋川 牡丹と八重桜』
最初は渋川市寄居の正蓮寺の牡丹。
渋川四つ角を左折(西)して三つ目の一方通行の細道へ、信号で再び右折して道なりで
駐車場。この正蓮寺は「渋川城址」でもある。
渋川城は、正蓮寺境内とその西側の住宅地一帯に築かれていたとのことで
寺の境内に城跡碑が建てられている。
寺の北側は一段低く、東側には用水路となっている堀跡が残り。
西側の民家敷地南側には深い堀と土塁や堀切となっているとの解説、渋川城は、
元亀3年(1572年 信玄対家康の三方ヶ原の戦いの年)に 信濃から
吾妻経由で西上野へと侵攻した真田幸隆ら武田勢が白井城の
長尾憲景を攻めるた際に、武田方に与した渋川地衆によって築かれたと伝わる。
この戦いでは長尾憲景は、八崎城から出撃して武田勢を破ったと伝えられているが
八崎城とは北橘の利根川左岸の河岸段丘端を利用して築かれた城。
丁度、分郷八崎公民館から南側一帯が城跡。
寺を辞して四つ角に戻り東進してR-17に出て鯉沢バイパスで白井宿。
子持ち道の駅があるので大駐車場も満車に近く大勢の観光客が
八重桜の並ぶ堀端や白井宿見物に繰り出していた。
花の具合は手っ取り早くデジブックで。
デジブック 『渋川 牡丹と八重桜』