鏑木さん主役のNHK番組、「神の領域を走る パタドニア極限レース141km」を録画で見ました。
http://www.nhk.or.jp/special/run/
Ultra Fiord というレースです。
番組では触れられていませんでしたが、この大会で57歳の1人の男性が低体温症で亡くなっています。詳しい記事はこちらにあります。
この中で2点、トレラン大会の抱える問題点がうまく表現されていました。以下が意訳です。
Every mountaineer has been taught to be wary of “summit fever.” Conversely, many ultrarunners’ code is “endure at all costs; DNF is a dirty word.”
"登山家が「あとちょっとで頂上」という病で亡くなるのと同様、トレイルランナーには「すべてに耐えろ。DNFは恥ずかしい」 という病がある"
Though races may create the illusion of a safer environment than a solo run in the backcountry, they also carry additional risks—sometimes causing people to venture out in dangerous weather, say, that might otherwise inspire a rain check.
”レースという環境は、単独登山より安全という幻想がある。しかし、単独登山では決して行わなかったような、危険な状況に飛び込むリスクを実は負っている。"
開催者側は予定通り開催すること。
参加者は何が何でも完走すること。
それが至上命題になってしまう、とっているリスクをお互いに軽視したり見落とすシチュエーションが大会という仕組みの中にあると思います。
UTMFの記者会見でのDogsorcaravan 岩佐さんの「開催しなくてはいけない、というバイアスがかかっていたのでは?」という厳しい質問は、まさしく正鵠を得ています。
トムラウシや中国のツアー登山で大量遭難が出たことは記憶に新しい。そちらとの関連を考察してみます。
まず低体温症と遭難、そしてツアー登山の仕組みの問題点については、この資料を読んでください。
「トムラウシ山遭難事故 調査報告書」
http://www.jfmga.com/pdf/tomuraushiyamareport.pdf
STYはもうちょっとで同じ事象だったのではないでしょうか?
トレラン大会もツアー登山と同じようなリスクがあるにも関わらず、この悲劇を忘れている人が多い気がしてとても気がかりです。
また登山だけでなく、甲子園(ありえない連投)や箱根駅伝(脱水、捻挫でも倒れるまで走らせる)など、大会では似た価値観が散見されます。
「百名山を登らせるのがいいガイド」とか、「予定通り遂行するのがいい主催者」といった、そして後述する「過酷さの追求」という価値観が前に出てくると、参加者の安全を軽視されるケースがあります。
いざというときに大会や主催者というのは、身を守ってくれるわけではなく、むしろ単独行動よりも悪い状況に追い込む可能性があります。
単独行のリスクはよく謳われますが、団体行動のリスクをもう少し検証していきます。
登山とトレラン大会の違い
トレラン大会も登山のうち。
一番の違いは、エイドという仕組みです。
エイドは、人工的な安定した水場(と若干の食料)と、エスケープルートが一定間隔であることなので、この面での遭難リスクが相応に減ります。
合わせて、装備の軽量化が図れますので、多少ハイペースでの超長距離行程が組める、そんなメリットがあります。
しかし、エイド以外の面では、ただの登山。むしろツアー登山の雰囲気に近い。
例えば、今回のUTMFのレース終了後で低体温で震えている人を沢山みましたが、基礎的な知識(濡れた服はすぐ着替える、強風では肌を出さないとか)すら知らない人があまりに多くてびっくりしました。(上から目線ですが、本当にびっくりしたのです。)
なぜ、そんな無謀なスキルと知識で荒天の山に入ったのか、ツアー登山の遭難事例と同じような疑問がわいてきます。
そして、STYの行軍をみると、まるでトムラウシの再現です。
トムラウシの報告書も、STY参加者の感想でも、個々人それぞれが違和感と不安を持ちつつある。
トムラウシではそのまま行動をつづけた結果、悲劇につながりました。無理な渡渉をして濡らしたことが致命的な低体温症になったこともあります。相応のスキルを持つ人が、個々人の判断に従っていたら、たぶん犠牲者は半分以下だったのではないでしょうか。
STYでは幸い犠牲者はでませんでした。
ツアー登山と比べて、さすがに個々人のスキルが上だったこともありますが、あの沢の濁流を無理に横断しようとしている人たちを見ると、ただ運がよかっただけ、とも考えられるほどの瀬戸際だったと思います。
集団に合わせてしまう心理はとても想像つきます。
予定を乱したくない。周りに迷惑をかけたくない。
特に100マイルレースならば、サポーターや家族の期待に応えたい。
そんな気持ちが、無理に続行して、取り返しのつかない判断をしてしまうのです。
これが単独行にはない、ツアーや大会特有の危険性です。
主催者を過度に信頼していないか、状況判断を周りに流されていないか、挑戦と無謀さをはき違えていないか、次のエスケープポイントに行くべきか、戻るべきか。
これは通常の登山と同じく、個人の経験値と判断を最も尊重するべきです。 (それがたぶん一番正しい)
トムラウシ遭難を代表としたツアー登山からの教訓は、今回のUTMF と STYに通じるところがたくさんあると思います。
大会や周りの意見がどうであろうと、「最後に自分の身を守るのは自分しかいない」という意識で山に入らないと、近々に悲惨な事故が起きるでしょう。
雪山シューハイク ランイベントなんてやばい候補筆頭ですね。
主催者だけでなく、参加者も、雪山や荒天の山に入る前にどんなリスクを負おうとしているのか、再認識するきっかけになってほしいです。
過酷さ=素晴らしい?
そして、日本人が強くもつ、
「苦難に耐えることが美談」
という風潮がその傾向を加速することがあります。
(甲子園で連投疲れしている投手や、箱根駅伝でフラフラの人を見て、喜んだり感動するのって何なのでしょう。)
TJARなど、テレビでやるレースのキャッチフレーズがどれも、
世界一 (日本一) 過酷なレース
過酷さだけがEndurance Runの魅力ではないんですけどねぇ。
Endurance Runのすばらしさは、殆どが参加者個人の内的(心理的)な経験と変化です。
レース完走に限らず、大きな事を成し遂げるには、精神的に様々な試練を乗り越える必要があります。(トレーニングと日常生活を維持するのにどれだけ精神力がいることか!)
しかし、これを映像でわかりやすい形にしようとすると、外的な過酷さ、といういびつな面が強調されてしまうのでしょう。
「神の領域」番組では死亡者にまで触れていませんが、最後の方で何度も倒れて、川にまで落ちた人を映して過酷さを表現しています。
これが「神の領域」=「体の停止信号に逆らって行動すること」なの?
神の領域に近いどころか、低体温症と疲労で意識混濁している典型的な事例でしかない。。
通常の登山であんなの見かけたら明らかに要救護者です。ヘリで運んでもおかしくない。
わかりやすい過酷さの事例として映したのでしょうが、あれは「内的変化を起こす良い試練」とは全く違う領域なんです。。。
あの時、すべての関係者が、レースだから過酷さに耐えることが一番、というバイアスがかかっていたと思います。
この番組の悪い面に触発されて、自分の能力に合わない無謀な山・レースに行ったり、ただ過酷さだけを追求したレースが増えないことを切に願います。
トムラウシの遭難や、Ultra Fiordの死亡事例、そしてSTYでの遭難寸前を教訓に、レースを中心とした団体行動がもつ危険性をもっと多くの人と議論して広めたいです。
竹内洋岳さんとか、一流の登山家の人からも、アドバイスがほしいところです。
それにしても前回のUTMFと続いて、説教臭い内容となってしまいました。この最近のモヤモヤななんなんだろう。困ったなぁ。