佐渡の翼

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長崎グラバー園その6(グラバー邸)       投稿者:佐渡の翼

2014年09月29日 05時14分24秒 | 国内旅行記

ガーデンカフェから階段を下りると右手にグラバー邸が見えてくる。真向かいには海を挟んで稲佐山の展望台、長崎造船所、松が枝国際観光船埠頭などが見える。稲佐山の展望台は長崎駅から車で7分ほどの所にあり、至近距離の所にある感じだ。教会、船、洋館、海、そして山肌にへばりつく様に建つホテルや家々、すり鉢の底に長崎港があり、その周囲を建物や橋が取り囲む構図だから、夜景は100万ドルを超えて1000万ドルの価値がある。画像でお分かりのように昼間でも絶景であるから夜はほんと凄い!夜昼共にピントバッチリのEOS-1DXでなければこの凄さは伝えられないと思う。

1859年(安政6年)、長い鎖国が終わりを告げ長崎・横浜・函館の3港は世界に門戸を開いた。同時に諸外国の商人たちは大浦居留地の周辺に住居を構え貿易を営み始める。これら貿易商人の一人、英国スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーの住居は、数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つ、現存する日本最古の木造洋風建築で、国の重要文化財に指定されている。開国直後、グラバーは弱冠21歳で上海を経由して来日、ベテランの外国人商人たちの中にあって茶やその他の産物、武器船舶などを取り扱う商人として仲間入りを果たし、やがて日本の再建に、外国人商人としての立場を超越した活躍を見せ始める。彼は日本の若い志士たちに国際的な目を開かせることが先決だとして伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外留学の旅を斡旋した。こうして維新動乱前後に多くの新時代の日本の指導者が続出したのは彼の努力に負う所が大きい。次にグラバーは、産業立国の大方針を以て当局に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓した。1865年わが国の鉄道開通の7年も前に大浦海岸に蒸気機関車を試走させ、1868年に高島炭鉱を開発し、また同年には小菅に近代式修船場を設けたりと日本の新世紀にエネルギー溢れる協力をした。その後、トーマス・グラバーの息子、倉場富三郎とその妻ワカは、1939年(昭和14年)に三菱重工業株式会社長崎造船所(当時)に売却されるまでの間この家を自宅として利用していた。

要するに、グラバーは、武器商人として、薩長の志士達に武器を供与したり、彼らの海外留学を手助けするなどして、倒幕派に肩入れをし、開国するや否や、鉄、船舶、炭鉱の三つの基幹産業を抑え、ビール会社まで設立するやり手商人だったのである。そして時の政府の方針通りに動いて利益を得る政商でもあった。その先見性で上手く商売を軌道に乗せ、従業員を大切にしたし、日本人妻「ツル」との間に子を成し、暖かい家庭も築いた。グラバーさんのお蔭で海外居留地が発展し、長崎は国際都市として発展し続け、被爆後も見事に復興を成し遂げた。長崎県民の底力のルーツはグラバーさんなのかもしれない。

いよいよグラバー邸である

対岸に稲佐山が見える

写真を撮る女の子

玄関ポーチ部分

夜が綺麗なんだよ

客用寝室

帽子

使用していた当時の家具が

そのまま残されている

有名な隠し部屋

グラバー美人「ツル」



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