絶海の孤島で病気になったり怪我をした時に役立つから…という、わかったようなわからないような理由で東大和天文同好会会員のHが式根島に持参した『家庭の医学』。
その一冊は、確かに夜毎の曇天と巨大な蚊、猛烈な潮気と暑さに参りはじめていた私たちの無聊を慰める役割は果たしました。
でもその代わりに、誰もが「自分は恐ろしい業病に罹患しているのではないか」という恐怖感に苛まれ、ある意味では肉体的な病気よりも性質の悪い精神的な病に憑りつかれるという結果を招いてしまったことは何とも残念かつ皮肉なことでした。

眠れない夜がもたらした肉体疲労と『家庭の医学』がもたらした神経の衰弱は、私たちを次第に無口にさせていきました。
まして上陸以来、海に入る以外は体を洗う術もありません。
誰もが全身から異臭を漂わせ、何もせずにボーッと過ごす時間が多くなっていきました。
そんな無気力な私たちに向かって、今回の式根島観測旅行を企画推進してきたSが言いました。
「みんな!ボクたちは夏の海に来てるんだぜい!目の前には紺碧の太平洋。こんな風に無気力に過ごすことは無駄だと思わないか!サマーボーイとしてもっと青春をエンジョイしようぜ!」
Sは元気でした。
こうして私たちを太平洋の孤島に連れてきた責任を感じていたのかもしれません。
「まずは、もっと海を楽しもうぜ」
そう言うSの手には、長い銛が握られています。
「これで魚を獲るんだ。そうすれば今、僕らが置かれている食料不足も解消される」
そう、島に上陸して2日目、私たちが苦労して持参してきた食料の大半はアリに食い荒らされてしまっていたのでした。

無気力だった会員たちの目に、僅かに明るい光が宿りました。
魚を獲って食う。
カップラーメンやアルファ米に飽きていた私たちにとって、新鮮な魚はいかにも美味そうに思えました。
「よし。今夜は刺身で豪勢にいこう!」
衆議一決、私たちは銛を手に海へ向かいました。
ところが、ずいぶん気合を入れてにわか漁師業に精を出したものの、結局、魚は一匹も獲れず、やがて漁に飽きてきた私たちは海から上がり、岩場で魚に見立てたゴミに銛を投げて漁の真似事をするという遊びに熱中し始めました。
何とも幼稚極まりないことを始めたものですが、それだけ私たちの頭の中は腐っていたということの証左ともいえます。

中でも、ことさら熱心にその愚かしい遊びに熱中していたIの口から、突然「痛っ!」という叫び声が上がりました。
「どうした?」
皆が駆け寄ると、
「お、オレの足…」
Iが震える声で自分の足を指さしています。
何と、Iの足にはこともあろうに銛が深々と突き刺さっているではありませんか。
愚かな遊びに熱中するあまり、Iは銛を投げる方向を誤って、自分の足に銛を突き立ててしまったのでした。
銛を抜き、海水で傷口を洗う間も、Iは「痛えよう!」と呻き続けていました。

Iのこの事件で、さすがにおバカな私たちも銛投げ遊びの愚かしさに気づきました。
ふたたび元の無気力状態に戻ろうとする私たちに、Sが声をかけました。
「Iの怪我は誠に不徳の致すところであった。しかしながら、ボクたちはあくまでサマーボーイ、マリンボーイである。ボクは今夜こそ、盛大な花火大会を行うことを提案する。夏の夜といえば、これ即ち花火ではないか、諸君!今夜は盛大な花火大会で島の夜を盛り上げようではないか!」
そうです。
何と私たちは、大量の花火まで持参していたのです。

夜になりました。
昼間、あれほど晴れていた空はまたしても曇り。
「うむ。絶好の花火大会日和である!」
Sの一言で、花火大会が始まりました。
花火というものは楽しいものです。
それまでの鬱々とした気分は吹き飛び、私たちは次々に花日に点火し、美しい光のページェントに酔いしれました。
花火大会が最高潮に盛り上がったとき。
「熱いよう!」
Iの叫び声。
皆が駆け寄ると、Iは自分の点火した花火を足の上に落とし、火傷に呻いているではありませんか。
患部を冷やすため、Iの足は昼間に続いて海水に漬けられることになりました。

Iが足に大きな負傷を負ったことで、さすがに強気なSも気力を殺がれたようです。
皆、押し黙ってテントに戻りました。
Sの提案はこうして不幸な結果をもたらしただけに終わり、ふたたび長く苦しい夜を、私たちは過ごすことになったのです。