こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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病理解剖で思うこと(6/10)マクロ的な死とミクロ的な死

2016年04月20日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

私は病理医なので医師として人が死ぬ場面に立ち会うことはないが、仕事柄いつも死ぬことについて考えている。


死とは一体何なのか、私は哲学者でなければ、宗教者でもない。だから、死について勉強したこともなければ、それを説明するのに適当な言葉の持ち合わせもない。ただ、私は病理医として目の前の遺体がなぜ亡くなったのかを病理解剖を行い診断する。死について調べるのに、死について勉強したことがないとは、支離滅裂ないいようだが、本当のことである。

人間が死ぬということには、二つの意味がある。一つはマクロ的、すなわち社会的な存在の死であり、もう一つはミクロ的、すなわち一個の生物としての死だ。病理医としての私が関わっているのはもちろん後者のほうだ。今回のシリーズ(病理解剖で思うこと)の1,2あたりで書いていることだが、病理解剖では亡くなった方の病歴、生活歴をはじめとする疾患と関連する可能性のある社会的な要因は重要な情報だ。そして、亡くなった方の死んだ時の臓器の状態というものと結びつけ、診断していく。 では、その診断とはなにか。なにをもって病理解剖診断とするのか。このことについて、明確な定義はない。というか、あるわけがない。

今日の医学における病理解剖で、亡くなった方におこったいくつかの変化はわかる。 例えば、長年高血圧症であれば心臓には高血圧となるべく変化が生じるので、その臨床経過は想像がつくし、高血圧症の原因もある程度はわかるだろう。だが、同じ死因であっても、それぞれの人がどうやって亡くなって行ったのかまでは分からない。住み馴れた自宅で死んだのか、病院で療養中に死んだのか、それとも集中治療室に運び込まれた直後に死んだのか。どのような治療を、どのぐらい受けてきたのか、などそういったことはあまりわからない。すなわちマクロ的な存在としての患者さんの死についての考察はほとんどなされていない。 マクロ的な死とミクロ的な死。これらについて少し考えてみたい。

 死生観につながること

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