すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。
その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。
すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。
もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。
身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。
むなしく大原山の雲に臥して、また五かへりの春秋をなん経にける。
「方丈記」にみられる一節です。
現代語では、以下のようなところでしょうか。
生きにくい世の中、無事を祈りつつも、心を悩ませること三十年あまり。
その間、人生の節目節目に行き違いがあってうまくいかず、運が無いことを悟った。
そこで五十歳の春、家を出て世を捨てた。
もともと妻子もなければ、家を出ることを思いとどまるような親類も無い。
官位もなく、禄も無い。
世に執着する理由など無い。
何をするでもなく、大原山の雲の下で過ごし、五年の月日が経った。
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筆者の鴨長明は、もともと京都の賀茂御祖神社禰宜の次男に生まれ、跡を継ごうと様々に画策しますがうまくいかず、世をはかなんで世捨て人となり、京の田舎に庵を結んだとされています。
しかし、庵の周辺は田舎だったにせよ、京の中心地までそう遠くはなく、何かにつけて京の町に出かけ、祭り見物などをする俗物で、世捨て人と呼ぶには少々違和感があります。
しかしそれなればこそ、私は「方丈記」とならんで三大随筆と呼ばれる「徒然草」の吉田兼好や「枕草子」の清少納言よりも親近感を覚えます。
何よりその俗物ぶりが。
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世捨て人を気取りたくなる気分はよく分かりますが、大方の人間はなかなか世を捨てることなどできますまい。
世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都はなれぬ 我が身なりけり
と詠んだのは、かの西行法師でした。
あれほど世の動きに背を向け、北面の武士という地位を捨ててまで花鳥風月を代表する日本的美意識に基づいた和歌を詠むことに人生を費やした法師にしてからが、都を離れることができなかった、と慨嘆しているわけです。
私も漠然と、世捨て人となって、世のしがらみから逃れ、何をするでもなく生きていきたいという願望を捨てきれずにいます。
経済状況が許すなら、今すぐにでもそうしたい、と。
但し、庵を結ぶのは山中ではありません。
都会のマンションの一室に他なりません。
現代社会で隠棲するのに相応しいのは、ご近所付き合いのしがらみが無い都会しかありますまい。
山川草木にあたるのは、あまたいる人間や建築物。
都会に隠棲したとき、私の魂はどんな地平を覗き見るのでしょうね。
定年退職まで無理な予感はしていますが。