今日は朝から新装なった平等院に参詣するため、京都郊外の宇治を目指しました。
京阪宇治駅を降りて、すぐに平等院への表参道だったのですが、なんでもかんでも緑茶で、少々げんなり。
抹茶ソフトに茶蕎麦、なんだか町全体が緑めいていました。
想像したより小さなお寺でしたが、阿弥陀如来像は3メートルもある巨大なものでした。
仏教では、正法・像法・末法という区分があります。
仏教成立後千年間は正しい仏教が行われる正法の時代。
続く千年は形式ばかりの仏教に堕する像法の時代。
その後仏教が廃れる末法の時代。
お釈迦様の予言では、平安時代に末法の世があらわれるということで、平安時代を生きる人々は、末法の世をひどく怖れたと伝えられます。
ノストラダムスの大予言を怖れた、前世紀末のような感じでしょうか。
衆生を極楽浄土に導くという阿弥陀如来を金ピカで巨大に製造し、そのまわりにあまたの菩薩を浮かべた平等院の阿弥陀堂からは、時代の恐怖に怯える人々の怖れと祈りがひしひしと伝わってきて、息苦しいほどでした。
救われたかったのですねぇ。
西方浄土に行きたかったのですねぇ。
私は巨大な阿弥陀如来を前にして、沈思黙考するほかありませんでした。
今も昔も変わらぬ、人々の願いと祈りは、私をして沈黙せざるを得ませんでした。
その後茶蕎麦を食し、宇治川を渡って宇治上神社へ。
いつ成立したかもわからない、古い神社で、世界文化遺産となっています。
阿弥陀信仰とはあまりに異なる、シャーマニズムの世界に、なんとはない恐怖を感じました。
宇治川には船がたくさんあり、鵜飼いを行っているとか。
京都で鵜飼いとはまったく知りませんでした。
少々歩き疲れましたが、時間が早かったので、京都市内に戻って楽焼き専門の美術館である楽美術館に足を運びました。
楽焼きといえば、利休が愛したという強烈な黒。
そして秀吉が好んだという赤。
さらには様々な意匠をこらした美的というより挑戦的とも言うべき美術世界が広がり、私は黒茶碗を前にして、まるで戦っているかのごとくでした。
黒の黒を、黒だけで究極の美に作り上げたその精神は、まるで武士道であるかのごとく、それに対するには、私は戦う姿勢を顕わにするほかなかったのです。
夜は京都の庶民が行くような安い居酒屋で本来の京料理を楽しみ、鴨川を散策しました。
盛りだくさんな一日でした。