芸術を極めていくと…⑦ 美輪明宏  スピリチュアル対談 ボクらの時代 本当の美しさとは・・・

 

前回の

芸術を極めていくと…⑥ 美輪明宏 情熱大陸 本当の美しさとは・・・ に続き

美輪さん動画から、、、

 

 

 

 

 

まずは美輪さんが2歳のころのお写真

 

少し話をまとめながら書き起こし、させていただきます。

 

 

----------<始>----------

 

1935年長崎生まれ

 

美輪さんのお父様は市内で料亭やカフェなどを経営

現在公営になっている丸山遊郭の方では一階がお風呂屋さんで2階が料理屋さんだった。

そして、もう一軒のお店はバーとキャバレーが一緒になった規模のカフェをやられていた。

 

隣が映画館・劇場、目の前が楽器屋さんで、クラッシック・ジャズ・シャンソン・タンゴ・流行歌…一日なりっぱなしで、料亭の方では芸者衆が昼間、長唄・小唄の稽古ごと日本舞踊もやっていて、全部今の仕事につながっている。

 

それで、ものを見る目が・・・

 

お風呂屋の番台に御手伝いさんと一緒に座っている時のお話・・・

 

立派な服装の方が服を脱ぐと気の毒なアバラだらけの干物みたいなそういう体、、、そうかと思うと、今度はヨイトマケのおばさんみたいな、木綿だらけで、垢だらけで汚いものを召していて、それを脱ぐと○○の彫刻みたいに素晴らしい体をしている。それで小さい頃の美輪さんは、「えー着るものってうそじゃん!」それからは、着るものを見たり、持物を見たりしないで、裸を見る癖がついた。

 

 

それまではまだよっかたのだが、

 

 

カフェの方では・・・いろんな職業の方がお忍びでこられ、お坊さん・神父さん・政治家・色々なサラリーマンの人が、、、

 

 

そして、行い澄まして立派にしている人が、酔うほどに、ホステスさんのスカートの中に手を突っ込んだり、頭突っ込んだり、頭からビールかけられてひっぱたかれてへらへらしたり、、、。

 

 

「これなんなのー、容姿・容貌・年齢・性別・国籍…もっているもの…肩書き一切見ないことにして、”見えるものを見なさんな、見えないものを見なさい、それが心です。目の前にいる人の心が純粋か純粋でないか、その純度を見る、そういう癖をつける。”そういう風な癖がずっとついている。それが美輪さんにはいまだに続いているそうです。

 

 

 

幼少期に培われたものがあった・・・

 

今美輪さんが自作演出で舞台装置も衣装も音楽も全部一人でやられるが、それも幼少期の環境がそうだった。こんどやるコンサートでも、クラッシックもラテンもなにも全部一緒に入っている。シャンソンもみんな・・・行ってた中学でフランス語が必修科目に入っていた。だからシャンソンを歌えるようになった。

 

 

 

そんな中、美輪さんの人生を大きく変えた出来事「原爆体験」

 

長崎の地図、上部の赤い丸が爆心地でもある美輪さんのご祖母様のおうち、写真で美輪さんが指を差されている部分が自宅と商売をやられていた場所、この2か所を行ったり来たりしていて、原爆が落ちた時は自宅の方にいた。それで命は助かる。

 

ちょうど小学校の時の宿題の絵を描いていて、2階が窓ガラスになっていて、出来上がりを見ようと思って後ろに下がったとたんにぴかっと光った・・・・・・・目の前のガラスが割れたというよりぴゆっと飛んだ。あとでみたら、柱にガラスが直角に刺さっていたが美輪さんには全く傷がなかった。

 

隣の町に大きな防空壕があってそこへ逃げる途中で、もう、地獄だった。話すと一時間二時間ではすまない、、、それは美輪さんの自叙伝紫の履歴書に詳しく書いてあるそうです。

 

 

そこで防空壕に入って、そこも地獄・・・・・・・・・・

 

 

 

8月15日の陛下の玉音放送を聞いて、そのあしですぐ長崎に来て、美輪さん一人、ご祖母様や叔母様達がおられた爆心地の方の家にいって、(上のモノクロ写真…長崎 浦上天主堂付近の写真を指さしながら)

 

『何処が何やらわかりませんでしょ、のっぺらぼう、なーんにもないんですよ、、、私はたびたび長いこといたもんですから、放射能のあれで、鼻血がでてくるし、悪性貧血になるし、しばらく私がプロになって東京でラジオの番組レギュラーでやっていた時も、「あ、丸山いない」ってったら倒れているってのはしょっちゅうあったんですよね。おかげさまでそれは何年か経って治りましたけど。。。』

 

・・・・・・

 

軍国主義のものすごい時代、大学出てるというだけで殴られたり、女学生がちょっと明るい綺麗なものを下着でちらっと見えた、それだけで裸にされて殴り殺された。。。。そういう時代だった。

 

・・・・・・

 

 

さらにそこから歌手を目指された美輪さん・・・終戦後になって東京の国立音楽学校へ。

 

15歳で美輪さんは長崎から上京。

上京した美輪さんは16歳から、銀座にあったシャンソン喫茶”銀巴里”で歌い始めました。

 

 

「三島由紀夫」や「なかにし礼」など「シャンソン好きの文化人達」が集う場所でした。

 

 

『美輪さんの日は立ち見ですよ。(銀座の)数寄屋橋あたりにね、「紫色の髪をした少年が現れる」なんて言われて、美輪さん独特の世界があって、そりゃーもう他の人たちの追随を一切許さない、なんか独特のものがありましたからね、まあ見た目も美しいし、まあ、銀巴里の女王でしたね、女王としかいい当たらないね、大王とは言えないでしょ(笑)』

 

 

大手のレーベルからレコードを出し人気は急上昇。

 

 

しかし、週刊誌で同性愛を告白したことが、きっかけとなり、人気は急降下・・・

さらに、世間の非難や差別にさらされます。

 

 

 

そんな中で自ら作詞作曲したのが、ヨイトマケの唄でした。11.20

 

--------------------------★前篇終★--------------------------

 

 

前置き段階が長くなってしまって、本題のヨイトマケの唄の美しさの追及までいけませんでした。残念ながらまたまた次回に持ち越しです。

 

私は小学6年生の修学旅行で長崎の原爆資料館に行きました。そこで見て目に焼き付いて離れなかったのは、雨戸についた人間の影、影だけで体は溶けてなくなってしまったそうです。

 

その後26歳ぐらいのころ再び原爆資料館にいってその雨戸を探しましたが、もうありませんでした。

なぜそんなところに行きたがるのか不思議がられましたが、私は世の中、平和が続くともかぎらない、これも現実なんだと、心の準備をしておきたいそういう気持ちだったように思います。

 

美輪さんが原爆の落ちた長崎の街のことを「のっぺらぼう」と表現されていますが、とてもリアル感があります。現実にその目でその瞬間を見られたのですから、当然ですよね。一瞬のうちに今ある当たり前の暮らしが別世界になってしまう。それが戦争なんでしょうね。

 

 

 

芸術を極めていくと…⑦後篇 美輪明宏  スピリチュアル対談 ボクらの時代 本当の美しさとは・・・につづく・・・

 

 

 

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