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カテゴリ:タイガース脇役物語
タイガース脇役物語(8) 葛西 稔 かさいみのる
1967年5月5日生 青森県弘前市出身、東北高~法大 1989年秋ドラフト1位で阪神入団 背番号13 右投右打 投手 阪神在籍 1990~2001年(通算12年) 通算成績 331試合584回 36勝40敗29 奪三振352、自責点233 防御率3.55
地味ながらタイガースでは先発、中継ぎ、抑えと、全ての役割を果たしてくれた葛西は、青森県出身。小学生のころから全国レベルの大会で実績があったことを買われて、宮城県の名門・東北高校に進学する。 ところが、運悪く同学年に大魔神・佐々木主浩がいたため、エースになれず、甲子園ではわずか1イニング投げただけの陰のような立場だった。ちなみに高校時代までの葛西はオーバーハンドで投げていた。 法政大学進学後は下手投げに変えて頭角を現し、通算18勝7敗の好成績。大学選手権ではノーヒットノーランも達成している。迎えたドラフト会議では、野茂英雄に8球団が競合する空前のフィーバーのなか、外れ1位で阪神タイガースに入団する。ここでも陰に隠れてしまった。
1年目の葛西は、他球団のドラフト1位ルーキーが活躍するなかで、シーズン終盤のわずか4試合に登板しただけで0勝1敗という成績に終わる。それでも2年目の91年には17試合に登板、そのうち15試合に先発し8勝8敗。先発ローテーションを担う存在になる。特にヤクルト戦には5勝と強かった。
翌92年は21試合で17度の先発、成績は6勝8敗と負け越したが、この年の開幕戦がヤクルトだったので、開幕投手にも抜擢されている。しかし、先発投手としてのピークはここまでだった。
93年からの3年間は、葛西にとって長い模索の時期だった。先発すると打たれるため、中継ぎに回り、そこで好投が続くとまた先発に戻るという繰り返し。ファームに落ちることもしばしばで、居るべき位置がわからない状態で苦悩する毎日となった。
完全にリリーフ投手の道に転向したのは1996年で、その抜擢をしたのが藤田平監督だった。葛西は自己最多の63試合に登板しており、そのほとんどが中継ぎで、防御率3.31もプロ入り後最高の数字を残した。 97年に吉田監督が就任すると、前年の好成績を買われ、クローザーに起用される。この信頼に応えた葛西は、6勝3敗10セーブ、防御率も1.51という素晴らしい活躍だった。しかし、この年をピークに成績は落ちていき、また中継ぎの目立たない存在になってしまう。
在籍中は影の存在であることが多かった葛西だが、最後の輝きを放ったのが2000年だ。これは野村克也監督の2年目・・・といえば、もう皆さんおわかりだろう。あの葛西、遠山、伊藤の「勝利の連立方程式」で一大ブームとなった年である。 特に読売の中軸に成長した松井秀喜を封じるための奇策は歴史に残る。右打者の石井浩郎には葛西が投げて遠山は一塁を守り、次の松井には遠山が投げて葛西が一塁に入る、この「葛西-遠山-葛西」の変則リリーフはかなり相手を苦しめ、松井は遠山の顔を見るのも嫌になるくらい抑えられた。 この年、葛西は7勝6敗17セーブ防御率2.45の好成績を収めている。連立方程式で5試合の一塁守備機会もあった。しかし、現実には注目は遠山対松井に集まり、葛西はどうしても影的な存在に写った。 2001年になるとめっきり力が衰え、2002年はコーチ兼任になるも、登板機会のないまま現役を退いた。 下手投げだが意外に球威があり、コントロールも好かったので、先発一本でもそれなりの成績を残したかもしれないが、紆余曲折、大半はタイガース投手陣の陰のような存在で、脚光を浴びたことは少ない。それでも、長い低迷時代にタイガースを支え、時に話題を提供したことで、脇役といえども印象に残る投手なのである。
現在、葛西さんは東北・北海道担当のスカウトとして、有望選手の発掘にご尽力されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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