院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

1950年台の勤労

2017-08-17 03:28:44 | 歴史

(松本のカフェバー「ふるさと」。Hot pepper より引用)。

 上の写真は長野県松本市のカフェバーです。カフェバーだから夜間営業しても当たり前ですが、地方都市では珍しいといえるでしょう。

 現在、都会でもカフェバーは繁華街にあり、夜間営業は当然です。都会の下町でもアルコールを出す店は夜に営業をしています。コンビニや牛丼屋は24時間営業です。しかしながら、繁華街ではなく小さな商店街では、洋服屋とか八百屋や本屋は遅くとも午後8時には閉店してしまいます。夜間の要員を雇うメリットもありません。

 ところが、1950から60年台にかけては、コンビニもスーパーもありませんでしたから、名もない小さな商店街さえ午後10時まで営業していたのです。しかも、休業は年2日。(月にではないですよ年にです)。小正月と盆の2日だけでした。(これは江戸時代からで)後に小正月(1月16日)が元旦に変わったのですが、年に2日間というのは同じでした。

 元旦の翌日、1月2日にはもう「初荷」が始まりました。「初荷」のトラックは初荷にのめでたい旗を立てて走っていました。現在、魚市場は日曜休みですが、当時は冷蔵庫が未発達で氷だけを使用していたので、市場は休むわけにはいきませんでした。

 こうして津々浦々まで10時まで開店していました。むろん夜間要員なんていませんし・・。アルコールがメインではない蕎麦屋定食屋なぞも夜12時まで営業していました。現在、小さな商店街の食堂は午後9時くらいまでですよね。父親は当時、夜中の12時ころに出前をとっていましたよ。

 それだけニーズがあったのです。つまり、買いに来る人達も、夜遅くまで働いていたのですね。もう廃止になりましたが、大規模店舗法というのがあって、デパートのような大きな店は、あまり長い時間やってはいけませんでした。商店街を保護するためです。

 とにかく、むかしの人はよく働いた。トラックは高価で少なく、物の運搬はせいぜい自転車とリヤカーでしたからその分時間がかかったのかもしれませんが・・。渋谷や新宿は「不夜城」ではありませんでした。渋谷新宿の最終バスは午後8時台だったと記憶します。

 以上のような理由から、人々はどうしても夜は寝なければならないことになります。テレビは存在しなかったしラジオの深夜放送もありませんでした。ある意味、健康的でした。

 現在、時短をしても生産性がむかしより高いのは、自動車と冷蔵庫とコンピュータの普及があるからだとはいえないでしょうか。

 いずれにせよ、私には「むかしの人は本当によく働いた」という印象が強いのです。現在、日本が先進国の部類に入っているのは、あのころの大人たちの努力があってこそだったと私には思えてなりません。

 「盆と正月がいっぺんにきた」という表現がありますが、それは当時の人の言い分で、週休2日の人には、この言葉の本当の意味が実感できるはずがありません。

 労働基準法や時短がきびしく言われるようになりました。むかしのような働きすぎにはマイナスの面もあったからでしょう。そのころ子どもだった私には「大人ってすごいな」という印象しか残っていないのですけれども。

 さいきん特に「時給いくら」とか「時短」の論議がかまびすしいようです。やはり、むかしの働きすぎに「搾取」とか「病気」とかのマイナス面があったからなのでしょうね。もう少し勉強して機会があれば、むかしの過重労働のマイナス面についても考察を加えたいと考えています。

 ※私の俳句(秋)
    敗戦日迎へ退院まぢかなる

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