弘法大師空海によって日本にもたらされた真言宗は、平安時代に隆盛を極めましたが、朝廷に重く用いられたことが慢心の原因となり腐敗したのか、やがて、天台宗とともに新興勢力の鎌倉仏教に押しやられていきます。

平安末期に現れた真言密教中興の祖に興教大師覚鑁(かくばん)上人がありました。
九州に生まれ、13歳で京都にのぼり出家。
20歳で高野山にあがり、
鳥羽上皇の庇護を受け、高野山に学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を建立。
根来近郊に荘園を賜り、根来寺の開祖となるが、やがて高野山を追われるように根来寺に降りて、3年後46歳で入滅。

この覚鑁上人の遺したものに
「密厳院発露懺悔の文」(みつごんいん ほつろ ざんげのもん)があります。

内容からすると仏徒のために書かれたモノのようです。
葬式仏教に成り果ててしまった仏教だけを見ていると、本当の仏教が見えません。
覚鑁上人の真摯な「懺悔」には、当時の僧侶に対するする鋭い批判が読み取れます。
同時に、自分の足りなさと戦いながら岩をよじ登るような修行者の強い思いが伝わります。

一度私と一緒に味わってみてください。

ここには、およそ人と生まれれば、悲しいかな犯さずにはすまない「罪」がすべて挙げられています。
まるで、繊維の奥の汚れまで、洗い上げずにはおかない厳しくも清らかな祈りに貫かれていると思います。
と同時に罪を犯さずには生きていけない衆生への深い同情と憐れみ優しさで満ちています。

これが、本当に素晴らしいのです。

「われら懺悔す・・・」で始まる、覚鑁上人の厳しい心情の吐露は、本当に素晴らしいです。

過去無量劫より私たちは妄想にとらわれていろいろな罪を作りました。
身で犯す罪、口で犯す罪、心に思う悪念・・・この三つの業を、常におかしてきました。

お金をけちって、ろくにお布施をしないです。
すき放題やり放題で、規則を守りません。

なにかというと腹を立て、忍辱どころじゃありません。
怠け心にひっぱられて、きちんと精進ができません。
座禅しようとすると、気が散ります。
真実の自分自身に近づこうという勉強をしようとしません。
いつでも、こんなふうで、修行どころかかえって輪廻をくりかえすありさまです。

坊主を名乗っているが、やっていることといえば、お寺の面汚し、
形だけは僧侶の格好をして、お布施をせしめる。

得度受戒の時の誓いは、わすれっぱなし。
学ばなければならない戒律は、めんどうくさがって、寄り付こうともしない。
仏様を悲しませることを平気でやって、
菩薩様を苦しませることを、恥もしない、

へらへら遊んで、無駄に年をとり、
いんちき暮らしで、空虚に日々をすごす。

優れた人に慕い寄ろうとがせず、アホな友人にばかり近づいて、
善をなそうとしないで、悪をなす。
自分が有利になるように、自慢する。

自分が有名になりたくて、他人を悪く言う。
自分より上だと思う人を見ては、嫉妬し。
自分より劣る相手だと思うと、馬鹿にする。
金持ちと見れば、なんかくれないかなあと思い、
貧乏人と見ると、しっしっと追い払う。

わざと殺したり、うっかり殺生をする。
つねに他人のものを狙っている。
心に思うだけにせよ、実際にせよ男女のあやまちにふける。

言葉が四分、心が三分、かねそろえて、
仏様、仏様という時は、しばられる気がして窮屈さを感じ、
お経をあげるときは、読み間違える。

良いことをすると、いい気になって、かえって、輪廻をくりかえし禍の因になる。

寝ても起きても、意識してもしなくても、つねに犯している限りない罪、
これらの罪を、今、仏法僧に向かって、すべてを告白いたします。

だから、どうか、お慈悲をください、哀れだと思し召して、罪を消してください。
また、私が、なりかわって、かわりに懺悔しますので、誰にもこれ以上、この罪の報いを受けさせないでください。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鳥羽上皇の身に余る寵愛を受けた覚鑁上人への強い妬みで高野山を追われたことを思えば、僧職にありながら人々が、どんなに汚いか、失意のうちに没したに違いない。

お金や物への欲望は捨てきれない、女と見れば欲しがる、人が何かいい目にあったら、妬む、あるいはおこぼれに預かろうとする。根性も悪ければ口業も犯す。
たまに善行をするとうぬぼれて前より人間が悪くなる。

人とは、所詮そういうもの。
その罪のひとつひとつを克明に見つめて、
必死になって一切衆生を救おうとして祈り通した
その報いは私が受けますから、衆生にはバチを当てないでください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

寒修行になると、私たちはこの経をお唱えします。

昨年一年犯し続けた全ての罪を懺悔して、新たな気持ちで、まっしろから新しい年に向かって飛び出していくために。

毎年毎年、新しい。
過去は捨てて、あすに向かって立ち上がる。

それが、本当の仏教です。生きた教えなのです。

また、仏教に限らず、宗教とは、ちっぽけで汚い自分を超えた崇高さ、清らかさ、気高さ、美しさに憧れ、それにむかって一心に生きること。

なのに、近くはオウム真理教、そして創価学会・・・本来の宗教の崇高さを捻じ曲げたり、引きずり下ろしたり・・・どうしても、その裏に彼らの黒い手を感じてしまいます。

そして、たぶん、キリストが神殿で「マムシの子」としてけちらしたパリサイ人、ブッダが避けなければならなかった何か(たくさんの戒律でひきしめなければ崩されてしまう)大昔から、彼らは存在していて、常に、真理に仇なす存在であったのだと思います。


クリックよろしくお願いします