本日連続3つ目の更新。
それほど昨日は書きたいこと、書かずにはいられないことが多かった。
あの亡くなられたご婦人Nさんの娘さんも、お父様とご主人、子供を連れて来てくださった。
皆にこやかで温かなお人柄がにじみでていた。
見えない絆で繋がっていることを肌身に感じた。
先月逝かれた私の焼肉料理に感動し涙まで流して下さった娘さんのお母様。
仕事の意味が何であるかを迷っていた私に教えてくださった。
あの日、退院直後の外食を初めて行く当店でされて、帰り際、感極まって涙をこぼしながら私に美味しかったわ、ありがとうと言われたのだった。
あの慈愛に満ちた涙の深い笑顔を生涯私は忘れない。
生きることへの感謝の気持ちを食と連鎖された感動は、病を通してはじめて実感され、その面持ちを食を提供する仕事をしている私に届けてくださったのだと、今になってそう理解している。
その後、近況報告をしてくださる娘さんとブログを通して交流していた。
出会い、絆、人生は捨てたもんじゃない。
お礼が言いたかったと手土産まで持参して下さった。
何もしてやいないのに。
お見舞いにさえ行かなかったのに。
お客様として来られ、お金まで頂いたのに。
彼女にはそんなことは関係ないようだ。
母が元気を貰い、感動させて頂いたから、そう言われているようだった。
今になって思う。
たぶん、心を届けることが出来たのだと。
病と向き合いながら、健康で生きてることへの感謝と人生の深みを知った敏感な感性は、肉の一切れ一切れに思いを込め、盛り合わせた野菜にも食べる人の健康を祈っていることも、すべて通底していたに違いない。
昨夜丁寧にも再びブログに届けて下さった娘さんのメッセージからもその思いを深くした。
以下はそれに対する感謝の気持ちの私の返信である。
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真心のこもった嬉しい嬉しいメッセージをどうもありがとうございました。
優しい笑顔の御父様、ご主人、宝ものの子どもさん、そしてNさんと出会えて本当に嬉しかったです。
でもその笑顔の裏にはどれほどの悲しみの塊が春の日差しに氷解することを望んでいることでしょう。
私も同じです。
必要なのは、確信することです。
必ずまた出会えることを、あんなに愛情をたっぷりと注いでくれた御母様とこれで終わりで二度と出会えなんてことは決してあり得ない。
不思議なものです。
御母様やNさんとの交流の後を振り返ろうと自分のブログを探していたら、偶然過去記事が目にとまり読んでみたところ、救われた気持ちになったのです。
これは是非、Nさんにも読んで頂きたい、そう思い、ここに載せさせて頂きます。
大学で出会った教授のお話です。
何の役にも立たないかも知れませんが、ほんの少しだけでも心が軽くなれば幸いです。
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今回の通教スクーリングで学んだのは、経済のことばかりではなかった。
教壇に立ち、教鞭を執る姿や声の張りからも、間もなく還暦を迎えられるとは到底思えない担当の高橋教授は、若い頃、アメリカの一流大学に留学して博士号を取得後、そのままその大学で講師を務められた。
周りから優秀だと期待され、輝かしい将来が嘱望されていたにもかかわらず、恩師と母校がどうしようもなく懐かしくなって、皆が勿体ないと押し止める中を無理矢理、日本に帰って来られた熱情家でもある。
仏法にも精通されており、講義内容が生命論に逸れたときに、私の眠気は覚めるのであった。
曰わく、
「人生の目的は二つあります。
ひとつは、境涯を高めること。
それは今世に限らず、過去世から来世に渡り繰り返されているのです。
例えば、ベートーベンの音楽の才能は、この世だけで築き上げられたものでは決してありません。
実は、過去世にその因を積み上げて来ていたのです。
そう思えば、こうして学ぶこともそうだし、生きていく上でのすべての労苦が全部、自身の向上の因になるのです。
苦手で傲慢な輩との出会いもあるでしょう。
それが近所や会社の上司だったら、毎日が地獄に思える。
だけど、そんな相手にも良いところ、仏の生命を持っている。
ならば、その生命を礼拝するように接していくのです。
まず、会って具体的に話すことです。
それは小さな人間関係から、大きな世界平和のためであろうとも、一番の早道が、究極のところ対談することにしかないからです。
歴史を振り返ってもその原理は実証されてきております。
その反対に権力や武器を使っての解決方法は、必ず報復という形で悲劇を繰り返してきています。
そうした意味でも、私たちは、生きている内に少しでも境涯を高めていきたいものです。
もうひとつは、衆生所遊楽。
この世を楽しむために生まれて来たのです。
本当に境涯が高まれば、何を見ても、何をしいても、生きていること自体が愉しくて堪らなくなる。
卑近な例では、奧さんからがみがみ言われても、鈴虫が鳴く声のように聞こえて来る。
創立者の恩師、戸田先生は、そういう境涯になりなさいとよく言われました」
また曰わく、
「死を悪戯に恐れてはいけない。
例え私が癌で余命幾ばくもないと宣告されても、覚悟を決めようと思っています。
どうせ、あと何年、何十年後かには誰もが死ぬ運命なのです。
その事実からは、如何なる財宝、功績を持ち、幸福で完成された人生や人間であれ、誰人も逃れることは出来ない。
だけど、それは肉体が滅びるだけなのです。
物理的・科学的にいつかは朽ち果てる物質の崩壊に過ぎない。
一方、生命は永遠です。
これは間違いが無い。
ならば、また生まれて、その続きをやればいい。
我が校の創立者が、誰かの身内が亡くなった際にはその人の元にすぐに飛んで行き、抱きしめながらよく言われる言葉があります。
『すぐにまた会えますよ』と。
それを今までずっと私は、来世のことと勘違いしていました。
最近になってようやく解ったのです。
実はそれは、死んだ時のことだったのです。
みんな亡くなったときに、先に死んで行った大切な人たちが、諸手を挙げて迎えに来てくれるという意味なのです。
だから、すぐに会えると言われた。
死は、自分も他人も悲しいことではあるけれど、それですべてが終わりではないということです。
──あれっ!また何の話からずれてしまったのだったっけ?
ごめんなさいね。でも、こういう話でも、私は真剣に喋っているつもりです。
小難しい経済学より、こうした話の方が喋っていても愉しいね!ハハハ……」
などなどであった。
話の内容は、概ね合っていると思うが、何せ私の記憶の範囲なので、聞き違えていたり、話を分かり易くするために意図的に補充した箇所もあることをご了承頂きたい。
その他にも、私の心を揺さぶる名講義ならぬ名雑談の数々が聞けたのだが、またの機会にでも。
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本当に不思議です。
間もなく、御母様が亡くなられた時間ですね。
これから仏壇に向かって合掌しようと思っています。
またきっとお出会いしましょうね^^。
お元気で!