一晩眠り、起きては書を学び、そして夜になるとまたやりがいのある仕事ができる。
心ワクワク、躍動している、こんな幸福なことはないだろう。
春は四月。
万物が生を萌芽し始める季節。
新たな思考が駆け巡る。
芸人チャーリー浜さんが笑いを取っていたギャグ。
「君たちがいて、僕がいる」
彼を尊敬し、この一言がすごいと言ったのは、小説『火花』で芥川賞を受賞した同じく芸人の又吉直樹さん。
粒子学の世界観だと。
また、昨夜読んだ新聞に、私も通教生として学ぶ創価大学の入学式で、大いなる志を抱いて海を越えて学びにやって来たインドの若き留学生の熱い抱負が紹介されていた。
「人々が幸福になる!僕は、そのために学び抜くんだ」
その意気込みやよし。
ただ、それを読んだ瞬間に、私はこう勝手に読み替えていた。
「人々『の』幸福になる」
もう一歩踏み込んで自身が人々の幸福そのものになる。
言い換えると、学びに学び抜いての自分の存在がそのまま社会、人類の平和や幸福になる。
チャーリー浜さんの量子論的ギャグにも通じるものがないだろうか。
非暴力で革命を起こした、これまたインドのガンジーも同様のことを言っている。
「見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい」
何も世界を変えるために大それたことをしろと言っているのではない。
その立場と力を持っている人であるならばそうしたら良いだろうが、私みたいに政治家でもなければ何ら権力も持たない小市民であれば、自分にできることをやればそれで良いと思う。
それは何かと言えば、私なら、焼肉料理でお客さんを喜ばせ、幸福なひと時を提供し、明日からのそれぞれの仕事や暮らしにに精を出せるようにすることだと言えるだろう。
さらにもっと日常的で、家族が喜ぶことをしたりとか、道端にゴミを拾てずに拾うとか、誰かに微笑みを投げかける(私の場合は危険を伴う)のも立派な行為になるはずだ。
生命や物質をミクロの心で粒子として観れば、すべては繋がっている。
だとしたら、その粒子の小さな変化は、即時全体を変え得る仕組みであり、力になっていることが理解できる。
こんなちっぽけに思える自分が、そして人間一人ひとりが、世界を変えることが可能なのだ。
と言うことは、見たいと思う世界はなりたい自分なのである。