雲ひとつない青空。

日陰には風が吹き、少し肌寒いけれど、こんな日は心ざわざわ、ただ過ごす日々の倦怠に置き忘れてしまってる何かを探し始める。

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透き通る目を持ちたい。
真実を見抜ける眼差しを。

なにが正しくてなにが間違っているのか。
青臭いと言われても知りたい。
二者択一論では解き明かせぬ人生と知りつつも。
それともすべてはまやかし、ホログラム、幻想に過ぎないとでも言うのか。

それでも、五感では捉えきれない認識の奥には、きっと何かがあるはず。

宇宙の意思は、真実がなんであるかを人に分からせるために、何もかもを相対させた。

白と黒、善と悪、男と女、愛と憎しみ、光と影、火と水、太陽と月、天と地、この世とあの世。

他にも高低、軽重、有無、硬軟、寒暖、増減、老若、生死、進退、上下、前後、左右、明暗、大小、開閉。

陰陽。

表現を変えれば無数に存在する。

それらは切っても切れない間柄。
光がなければ影はできない。
右がなければ左はない。
どちらかが欠ければどちらかが、否、どちらも存在し得ない。

つまり、それらすべてが一つとしてはじめて成り立っている。

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いつもの散歩道を歩き始めると、何やら脚元が気に掛かりふと立ち止まった。

瓦屋寺の石段の脇、時代に捨てられたような古い石仏がこちらを見上げてる。

雨風に流されて姿形が剥がれ落ちた無残な姿。
無為に過ぎた時を映し出していた。
しばし、大いなる時の流れを刹那に見つめた。

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この世の哀れみを見つめ、訪れる人々に向け、かつてあった、そのなんとも言えないやさしき微笑みは、大地に、人の心にへと滲み出されたのだろう。

そう感じた時に、かつて、日本の近代化、西洋化を憂えて小泉八雲が呟いた言葉を思い出した。

「日本人はこれだけ素晴らしい文化と伝統を持っていながら、ヨーロッパに追い付き追い越そうとするあまりに欧米人の合理的な心も一緒に輸入しようとしている。

器用な日本人は、彼らが作り出す製品は近い将来欧米をはるかにしのぐ製品を産み出す様になるだろう。

だが、その時には日本人はもぅ日本人ではなく、日本人によく似た西洋人になってしまっていることだろう。

そしてそうなった時にはじめて日本人は、かつて自分の町内の角に必ず立っていた石仏のなんとも言えないかすかな微笑みに気付くだろう。

実はその微笑みはかつての彼ら自身の微笑みなのだ」

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微かでありながら心豊かだった微笑みは消え去り、誰もがのっぺらぼうになり、経済至上主義の社会においては個人主義を利己主義に履き違えて、自然に素直に他者に心を開けなくなってしまった。

私たちはいったい何を見失ってしまったのか?

人生の根本の苦しみを見つめた釈迦の答えに曙光を探す。

「人間がこの世において苦しまなければならないのは、一時的な楽しみに幻惑されて、何が『本当の人生の目的』であるか分からないからである。

老いが、病が、死が怖いといって、それから目をそらしていては、何時かは必ず苦しまなければならない。

そうではなくて、それらを直視したとき、老いも病も死ももはや苦にならず、『悟りを開く』ことができる」

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生老病死の四苦を見つめることによって、人間や人生の総体を把握することが可能だということだ。

言い換えると、無常なる生の自覚。

死をはじめとするそれらの苦しみは、避けようがないならば、桜が厳しい冬を耐え忍び、春に咲き誇り、やがて散るように、あるがままに受け入れて、宇宙の意思に帰入すること。

したがって、普段から宇宙のリズムに合致した生き方こそが、そうした軌道に乗れる秘訣なのだろう。

生からの眼差しではなくして死からの眼差しこそが、真実を見抜く目なのだ。

人間はこんなものではないと思う。

生に対して死が、意識に対して無意識が、この世に対してあの世が、きっと無限の可能性、潜在力を秘めているのだと思う。

ちっぽけな此処や意識下においては計り知れない莫大なるパワーがきっと眠ったままなのだ。

人間を信じる。

己を信じる。

他者を信じる。

宇宙の意思を感じる。

そして、そんな未来を心から待ち望みたい。


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写真はすべて東近江市瓦屋寺にて撮影