「2種類の人間がいる。
やりたいことやっちゃう人とやらない人。

やりたいことやってきたこの人生。
おかげで痛い目にもあってきた。

散々恥もかいてきた。

誰かの言うことを素直に聞いてりゃ、今よりずっと楽だったかもしれない。

でもね、これだけは言える。

やりたいことやっちゃう人生のほうが、間違いなく面白い。

俺はこれからもやっちゃうよ。

あんたはどうする?」

これは矢沢永吉さんのあるCMでのセリフである。

世間の目を気にし体裁に身をまかせる人と、己の心のままに生きる人、と置き換えても良いだろう。

前者は傷つきにくく楽に生きられやすいかもしれない。
後者は失敗して恥をかいたり、苦難の連続の方が多い気もする。

ただ、面白いか面白くないかで人生を選択して来たと永遠のロックスターは語り、未来もそうして生きていくと宣言している。

翻り、私も含めて周りを見回すと、自分が本当にやりたいことすら掴めずに、悶々と日々の仕事や暮らしに流されている人の方が圧倒的に多いのが現実ではなかろうか。
特に小生の場合、いつまで経ってもこの歳になっても、他に道があるのではないかと心彷徨い、十代の頃と変わらず模索している。

ではどうすれば、それが掴め、かつ死ぬときに後悔しないで済むのか?
スポーツ界での調査で、監督が試合前に死の話をすると、普段より選手の動きが良くなり好結果を生んだと言う。
それは何もスポーツ選手だけの話ではない。
統計上、勉強にしろ、趣味にしろ、人生全般に渡ってそうらしい。

死をまず考えることによって、パフォーマンスが上がるのだ。
だが人は、特に平和な日本では(今は北朝鮮のミサイルの問題などもあり少し違うが)、戦争があるわけでもなく、ジャングルに住んでいるわけでもなく、ましてや普通の死さえほとんどの人々が病院という日常から隔離された場所で迎え、近隣者であってもずっと見守り、見送ることが困難で、殆ど死に接することのない時代だ。

誰もが100%、遅かれ早かれ死んでいくにもかかわらず、死という重苦しいことなど考えず、日々を送っている。
忘れたふりして死から逃避していると言っても良い。

だから自分が本当に望んでいることが見えないのではないか。
いつも心の真ん中に只今臨終の精神があれば、どんなに生き方が変わるか計り知れない。
今日、明日が死ぬ日だと自覚してはじめて、人は自分を知ることができ、本当の人生を歩めるのだろう。

闇がなければ光は見えない。
重さがなければ軽さは感じられない。
左がなければ右もない。
いつも光と軽さと3次元の中で生きているから、真実は闇の奥に重く螺旋状に沈んでいく。

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米原 湧出山にて

memento mori.(死を想え)

死を身近に引き寄せ、認識をこの世界の外に出してみなければ、生は決して輝いては来ない。
苦難を突き抜け、暗雲に突っこみ振り払ってこそ、青空の太陽に出会える。

しかし、そんな心境にすら人はなかなかなれないみたいだ。
いくつもの段階を経てしか、そこへは辿り着けない。
では、何が必要か?

「孤独になること」
社会やしきたり、道徳といった生の中で自分を縛るあらゆるものから逃げることが、逃避していた死の問題に直面するとこになり、そこから先に真実の生が立ち現れてくるはずだ。

40代半ばで病に伏し、病院に1ヶ月ほど入院したその前後に、私の人生は180度転換した。
それまで自分を支配していたギャンブルや酒、その他諸々の遊業ときっぱり縁が切れ、仕事と学ぶこと、そして自然と触れ合う山歩き、また何より、わずかではあるが家族と過ごす時間が人生のすべてとなった。

やはり、その時に孤独になり、はじめて死を見つめられたのだ。
いつか人生の森の中に迷い込み、孤独に追いやられる。
虎や熊が容赦なく襲いかかってくる。
鬱蒼と生い茂る樹々たちの中で、死という奈落の底を足元に孤独の淵に立たされ、一本の木として孤独を噛み締めた果ての全体感、宇宙観。
それが転機になった。
かと言って、今、すべてが願い通りにかなったかというと、冒頭に述べた通り、まだ迷っている。
が、ベクトルは要らぬことに目を向けずに済むようになり、何度も転げながらも立ち上がり、たしかな足跡を残せていると思う。

魂の成長には、死ぬまで七転び八起きが必要不可欠で、人生の真相だと分かった。
これからもそうして生きていくだろう。