人は悲しみの中にいる。

どんなに笑っていても、心の奥に生きていることの悲しみが宿っていなければ、決して腹の底からは笑えない。

人生で一番悲しかったことはと問われれば、母親が亡くなった時だと迷うことなく答えられる。

もう、それ以上苦しませないで。
ICUのベッドの酸素マスクを装着した母親を見つめて心が泣き叫んだ。

最後の時が過ぎ、ようやくチューブもマスクも外され、看護師たちに薄化粧を施して貰い、別室に運ばれた彼女は、先ほどまでの苦しみから解き放たれて、まるで眠っているようだった。

究極の悲しみの中に安堵感を覚えたあの日を思い出した。

そして人は、人生で出会った人、また出会わなかった人、多くの方々の真心や助けを受けながらでしか生きてはゆけない。

出会いと別れを繰り返し、季節や時代の区切りと同時に次の扉を開く。
喪失感や虚無感、悲しみや苦しみ、痛み、怒りを如何に乗り越え、一歩前の道を踏み出すかがその鍵となる。

時間や人、閉じてしまってもう二度と開かぬ扉の向こうを思い煩い嘆くより、その悲しみをどう明日への力にするか。

極めれば、死を受け入れることが出来るかどうか。

死を念頭に置き、生の有限を身に染み込ませて、今何を為すべきかを考えてみる。
それは何を捨て去るかと同義になる。

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母親の葬儀の日の早朝、夜明かしした葬儀場の前で

まるで永遠に時間が続くように、今日も朝からスマホを見つめ、どうでもいい知らない誰かの噂話をテレビでぼーと観てる。

後少ししか時間が残されていないと知ったら、そんなことなどを今やってられるだろうか。

締め切り間近のあの切迫感を持ち、火事場の馬鹿力、潜在能力を引き出すこと。

死を感じること。
悲しみを味方につけること。
何も大きなことをするわけではない。
眼前の小さな日常に生の喜びを見つけ、それを育んでいく。

忘れていた子供心に大切にしまってあった放ったらかしの夢や憧れを形に変えていく作業。

昨日やったことのどれだけを捨てることができるか。
捨てて、棄てて、捨て去って、最後に残るものやそれでも新たに生まれるもの。
それこそが、本当に自分がやりたいこと、やるべきこと、生まれてきた理由、使命なのだ、きっと。

あの14の春に観た映画のオープニングの曲が心から聴こえてくる。
ビー・ジーズの『イン・ザ・モーニング』
「ぼくの人生の朝」
その気になれば、いつもあの朝焼けが目の前に拡がっている。

あの時よりも、もっと深い悲しみを知ったから。
夜明け前の闇が深ければ深いほど、朝陽は眩しく煌々と輝き始める。