このブログで何度も書いているが、子供の頃から疑問なことがあった。
それは今思うと、生命やこの世界、時間や空間に関する根本的な問いかけだった。

別にいつもそんな変なことばかり想像していた少年時代ではなかったが、現実からふっと遠ざかる、ニッチというか狭間、間のような刹那が誰にでもあるはずで、少年といえど、垣間見ることはある。

それは大人になると忙しさにかまけて忘却する感覚かもしれない。
でも私の場合、意識的にか無意識にか、幸いかそうでないのか、結構そんな時間を持つことができていて、今も相変わらす途方も無いことを考えてしまっている。

あれはまだ、今の場所ではなく、旧八日市の歓楽街、飲屋街でお袋が小さな寿司屋を営んでいた頃だったから、よくは思い出せないが、小学校1年生から5年生までの頃の話である。

1つ目は、その日、私は近所のパーマ屋でお袋がパーマをかけ終わるのを待っていた。
多分空いていたのだろう、私は三面鏡の前に座り、左右の鏡に映る自分を見ていてあることに気づいた。
自分の映像が右の鏡から左の鏡、左の鏡から右の鏡へと移り合い、永遠に続いていく。
それは段々と奥の方へ行くにつれて小さくなっていくのだが、どんなに小さくなってもその先があるはずだ。
そんな不思議な感覚を覚えている。

今は少し分かる。
それはゼロと無限大の出会いだった。
無限小も無限大も限りがない。
最も小さいのは、中のない世界。
最も大きいのは外のない世界。
無限とは、そういうことだと形而上的に納得している。
無限の先は1つ。
無限小と無限大がひっくり返り、そして元々1つ。

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そして次に、この世界について。
それは誰かが運転するの車の助手席に座って景色を眺めている時に想起した。
この世が無くなる時は、この世自身が崩壊する時か自分自身が消滅した時。
そのどちらも同じ結果になることが不思議でならなかった。

その答えは現在、意外な仮定において成立する。
巷の量子論に支えられた少しスピリチュアルを感じさせる考え方。
この世は脳、あるいは意識が作り出すVR、仮想現実だとする説。
すると、元々この世界も自分も存在しないことになる。
たしかに、死んだら五感によって捉えていたこの世界は消えて無くなる。
はじめからなかったのだから、意識が作り出していたに過ぎぬのだから、当然である。
どうやらそう考えることが至極妥当に思えるのだ。
唯一、辻褄が合う。

「電子は観察者がいると、そこに意識が働くと粒子、物質になり、意識が働かなくなると波の存在になる」という、量子力学で実験証明された事実と矛盾しない。

脳も物質。
その脳を作り出しているのは意識。
表層の意識より莫大な無意識。
そして無意識よりもっと深いところに私たちの本当の存在である何かがある。
それは道教のtaoとか、仏教のマラヤシキとか、または神や仏などなど、宗派や様々な聖哲によって色々表現されてきた。

ようやく科学が、そうした悟った人たちの世界に追いつこうとしている気がする。

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さらに幼少の頃、居間で仰向けに寝転んでいた時、雨漏りのする天井のシミや家具の木目を見ながら思ったのは、このまま何十年か経っても、ここにこうしてこの状態はあるのだろうか。
あるとしたら、それはいったいどういうことだろう。
そんなわけのわからないことを考えていた。
これは時間に対する素直な疑問だったと今思う。

当時、私を含め家族3人のうち、姉貴は長期入院していたし、お袋は私たちを育てるのに必死に働いていて、学校から帰るとほとんど1人の時間を過ごしていた私は、店の2階の薄暗い部屋で、きっと感性を研ぎ澄ませていたのだろう。
そんなことを考える変な少年だった。

そんなわけで、今もまだ完全なる答えを得たわけではないが、考えてみると、科学にしろ、スピリチュアルにせよ、また宗教にしろ、万人を納得させるレベルには到達していない。
到達していたとしても、それをすべての人がああ、そうだったんだと納得させるメッセージを伝え切っていない。

私も、まだまだこれから、この子供の頃からの素朴な疑問を探求し続けていくつもりだ。

この世が何であるか。
自分とは何か。
どうして生まれてきて、なぜ死なねばならぬのか。

あんなに愛おしかった人たちは、今どこにいるのか。

この美しすぎる世界は、ただ自分が創造しているだけなのか。
それとももっと深い意味があり、この目には見えない宇宙の揺らぎ、その動きそのものがそこにどう関連してくるものなのか。

そんな風に相対的に考えるうちは真実は見えてこないのかも知れない。

絶対的な動き。

それを捉えてみたい。