子供が残酷なら平気で大人は嘘をつく。
もしくは無意識にと言い換えた方が適切かも知れない。
いじめっ子と嘘つきの騙し合い。
その根源はこれまでの人生を否定されたくないから、奥底の懐疑心をかなぐり捨て真実から目をそらし己を欺く。
弱者に自分の欠点を見せつけられ、どうしようもない感情が壊れ易い対象を撃ち抜く。
その罪深さをまた虚栄と虚像によって覆い隠す。
闇から光は発しない。
光が闇を照らしてこそ、光は光の闇は闇の本来の役割を果たす。
光源は闇の向こうに真実を誘う。
出勤して私の部屋を覗いたスタッフの高校生2人。
パソコンに向かって勉強していた照れ臭さから私は彼らにこんな話をした。
「勉強なんて社会に出て何の役にも立たないと思う?」
笑いながら頷く。
「自分も学生時代そう思っていた。ほんとに何にもしなかった。でもな、今頃になってその大切さを思い知らされたんや。この本……」
と言って、傍にあった本を差し出した。
1人が手に取り興味ありげにページを繰り始めた。
「商売してると計数管理が必要になってくるし、今、そのためもあって通信大学で経済を学んでる。でも、数式が出てくるともうお手上げ。さっぱり理解できない。自分らが習っている数Ⅰとか数Ⅱなんてまるでちんぷんかんぷんや」
本のページを食い入るように眺めてる方ではない1人が、「そ、そうです。僕もちっともわからんからやる気ゼロです」と自慢するように言った。
「だから今、中学の数学からやり直しているんや。よく大人が勉強なんて社会に出たら役には立たへんと言うやろ。あれは大嘘やで。どんな科目でも仕事だけでなく人生や物の考え方の見えない土台となることやとこんな歳になって実感しとる」
説教がましく言う私。
でも、だから勉強しとけよとは言わない。
自分が切羽詰まるか絶望の淵から這い上がる時、または人生の節々でその必要に迫られぬ限り、そんな気にはなれないことくらい知っている。
ただ、その時に仕事時間を過ぎても机にしがみついているちっぽけな親父がいたことをふと思い出してくれればちょっと嬉しいかも。
高杉晋作の言葉が脳裏に浮かぶ。
「面白きこともなき世を面白く」
その後に野村望東尼が付け足したと言われるのは、「すみなすものは心なりけり」であった。
勉強にしろ何にせよ、それをどう思うかどうするかは自分の解釈、心次第だということだろう。
これまでの経験は思考を生み、その思い込みは根強く心を支配して、さらに思いは思いを呼び自分の世界を決定し、同様の経験をさせ、いつしか身も心もがんじがらめに「自分には無理、できない」との執着心を抱える。
この負の連鎖を抜け出し、あまりにも狭隘なセルフイメージや世界観を打ち破るにはどうすれば良いのか。
いつか彼らに、本当の面白き世の中を実感してほしい。
もちろん私自身にも言えることだ。
そのためにはこの世の仕組みや生命の真実を探る心の旅路に着くことだと申し上げたい。
一番大事なことは、そして根本はそのことだと思う。
そのプロセスにこそ中途半端では済まされぬ学びの厳しさによる生きている実感がフツフツと湧き上がり、喜びを噛み締めることが可能になると思い、今まさに実践しているつもりである。