ShortStory.383 腹の中 | 小説のへや(※新世界航海中)

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 1話完結の短編小説を書いています。ぜひご一読ください!
  コメントいただけると嬉しいです。無断転載はご遠慮ください。

 

 見えないと知っているから油断する。

 そのどうしようもない醜さも人間らしさか、それとも――

 

↓以下本文

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 安藤恵美子(あんどうえみこ)は、そばアレルギーだった。

 

 小さい頃そばを食べて死にかけたのだと、彼女は自分でよく話していた。

 稽古場の人間でその事を知らない人はいないだろう。

 だから、昼食時であっても近くの蕎麦屋に行こうと口に

 するものは誰も居ない。有名な老舗であるその店の話題すら避けている。

 たとえ、人が列をつくっていても、店がテレビや雑誌で

 紹介されていたとしても、誰もその話はしない。

 

 安藤恵美子がいる前では、誰も――

 

 

 

 

 

 

 

 

 安藤恵美子は高慢な女性だった。

 

 人を肩書きや見た目で判断する人間で、つまるところ、

 私のような地味でパッとしない人間には全く興味のない人だった。

 それでも彼女は群を抜いて美しかった。

 舞台女優として優秀だった。

 

 彼女と同じ舞台に立つと、自分が添え物のように

 思えて仕方がなかった。周囲も彼女をそう扱っている。

 高飛車な彼女の態度さえ、綺麗な薔薇に当然ある棘のように

 許されていた。そういうものなのだと、認められていた。

 

 私もそう接していた。表面的には――いや、違う。

 もう内面的にも、かもしれない。そうでなければ、同じ舞台に

 立つことも恥ずかしく思えてくるから、そう思うしかないのだ。

 彼女の美貌と才能を認めれば、私は薔薇のまわりを舞う蝶として

 演じていられる。そうでもなければ、私の心は

 弁当の底に敷かれたレタスのようにしなびてしまうだろう。

 それこそ完全な添え物ではないか。

 添え物ではなく脇役であるがために、私は彼女を

 認めることにしたのだ。その高慢さも、彼女の才能の表れなのだと。

 綺麗な花を憎む蝶なんていない。花あっての蝶だ。

 

 嫉妬? あり得ない。

 そんな醜い感情なんてもっていない――そう思っていた。

 

 だけど、私は確かに憎んでいたらしい。

 彼女の事を。心の奥底では。いや、心の底から。

 

 午前の稽古が終わり、休憩室に二人。

 安藤恵美子と私。大きなテーブルに座っている。

 白い部屋に明るい照明。無機質なその空間に二人きり。

 他の人間はそれぞれ準備や打ち合わせや何かで

 この部屋にはいない。そこまで人数の多い舞台ではなかった。

 確か一昨日も同じようにここで二人きりだったような気がする。

 今も目の前でスマホを弄る彼女は、

 私の事なんてまったく覚えていないだろうけど。

 

 テーブルの中央にはお菓子が置かれていた。

 毎日違う差し入れが置かれているのだ。

 誰が置いたのかはわからないが、誰かが置いたのだろう。

 細かいことなど気にせずに、皆いつも手を伸ばすのが習慣だった。

 

 今日の差し入れはクッキーだ。

 包装はないが、その色や形には見覚えがあった。

 『文鈴堂』 のそば粉クッキー。

 有名なものなのかはわからないが、前に人から貰ったことがあった。

 

 休憩室に入ってすぐに気づいていた。

 差し入れに興味があって向けた視線の先に、それはあったのだ。

 その向こうには安藤恵美子が椅子に座って足を組んでいる。

 安藤恵美子。そば粉クッキー。

 彼女が食べたらどうなるかなんて、よくわかっている。

 あの話を、何度聞かされたかわからないのだ。

 

 私は黙って彼女のはす向かいの席に座った。

 ペットボトルのお茶を飲み、台本を開く。

 直接見えない彼女の姿が、紙面に透けて見えるようだった。

 口に手を添える。静かな部屋に音が響いた。

 咳払いしてごまかしたのは、自分の微笑だ。

 醜い笑顔だと思う。無表情に努めても、腹の中には

 ざわめきが広がっている。

 

 そう、私は期待している。

 

 抑え込んでいた感情。

 いや、見えないふりをしていただけの感情が

 すぐ傍にあった。私の胸の中心に。

 その感情が、のた打ち回り、泡を吹きながら息絶える彼女を見せる。

 脳内に広がった無声映画は私が思った以上に鮮明だった。

 

 私の差し入れではない。

 きっと、彼女を憎む誰かが持ってきたのだろう。

 ほうら、罰が当たったのだ。天罰だ。

 私は悪くない。私のせいじゃない。私のクッキーじゃない。

 

 知らなかった。知らなかった。それがそば粉のクッキーだなんて、

 知ってたら止めるわよ。当たり前じゃない。

 でも、知らなかったの。だから悪くない。私は悪くない。

 

 ね? そう言う事でしょう――

 

「何」

 

 彼女の声。

 気づけば安藤が私を睨んでいた。

 

「あ、いや……別に……」

 

 無意識に視線が向いていたらしい。

 顔を伏せた私の耳に、彼女の大げさなため息が聞こえた。

 すぐにまた気づかれないように様子を窺うと、

 その瞬間、彼女の手が伸び、クッキーをひとつ手に取った。

 何の迷いもなくそれを口へ運ぶ。

 

 その瞬間、彼女は首を抑え呻き始めた。

 血走った目で天井を仰ぐと、迫真の演技さながらの手振りで

 床に崩れ、蟋蟀(こおろぎ)のようにばたつき――

 

 

「だから、何よ。さっきからじろじろこっち見て」

 

 

 彼女の声で、脳内の映像が散った。

 私は目を逸らし、ごくりと喉を鳴らした。不自然なほど乱れた鼓動。

 彼女はもう一枚クッキーを食べたらしく、その音だけが聞こえてきた。

 休憩室のドアが開き、共演者の男がひとり入ってきた。

 

「おつかれさん……ん? おい、それ」

 

 彼はクッキーを咀嚼している安藤を見るや否や、

 目を見開き、テーブルの上のクッキーを一枚ひったくるように取った。

 目の前にそれをかざすと、一呼吸おいて息を吐く。

 

「なんだ」

 

 安堵の様子で見たのは私の事だった。

 

「びっくりしたよ。このクッキー、前、佐藤ちゃんにあげたのに似てたから」

 

 彼は苦笑いしながら私を見た。私の名前を口にして。

 その瞬間、体が冷たくなるのを感じた。

 血の気が引き、口どころか指先さえも動かせなかった。

 

 だって、これじゃまるで私が――

 

「何それ」

 

 彼女が何を考えてそう質問したのかはわからない。

 何となくなのかもしれないし、尋常でない彼の様子から

 何かを察したのかもしれない。

 

「いやあ、そば粉クッキーってのがあってさ、

 それにそっくりだったから……いや、まあ、何だ。

 俺の気のせいだっただけだから……悪い悪い。忘れて」

 

 彼としては驚きの感情のままに発した言葉なのだろう。

 途中で今の状況に気付き、気まずそうに

 言い淀むがもう手遅れだ。もう、遅い。

 

 反射的に向けた目が彼女と合った。

 射抜くような視線だった。

 私のことを確かに責めるような、

 汚らしいものを見るような、そんな目だ。

 

 私は何もしてない。

 私は、悪くない。ちょっと待って。

 

 違う。なんで……

 

 

 なんでよ――

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――

<完>