井上堯之バンドの時代~PYG① | edihの昭和音楽よもやま話

edihの昭和音楽よもやま話

60~70年代を中心に、音楽にまつわる話をアップします。

 

  あまり触れられることのなかった”井上堯之バンド”。

あくまでスパイダース以降の"井上堯之"の功績として振り返ってみることにする。

まずは”PYG”。

 

「今までのショー的なTV出演は一切拒否して、本格ロックをすたらせたくない」と、あくまでも彼等主導、プロデュース主体のバンドを目指し71年1月に結成された"PYG”。

2月には「スター千一夜」でDeep Purpleの「Black Night」を披露、3月のロク・フェス「MOJO WEST」でバッシングを受けて以来、どこの会場でも硬派なロック・ファンから罵声を浴びるなど散々なライブ・デビューとなる。

 

 

 

 

4月、プロダクションが反対するなか選曲した1stシングル「花・太陽・雨」(8万枚)、7月の「自由に歩いて愛して」(9万枚)と、”3大GSの合体で売り上げ3倍”というプロダクションの思惑を大きく外れセールスとなった。歌謡曲というジャンルから見ると同年ソロ・デビューの堺正章の「さらば恋人」は53万枚、井上順之「昨日・今日・明日」は32万枚、「雨のバラード」の湯原昌幸は62万枚でチャート1位を獲得、ロック色の強いサウンドは新しいファンを獲得するどころか、GS時代からのファンにも受け入れられなかったことになる。

 

堯之と大野は7月、“グランド・ファンク・レイルロード”のオープニング・アクトに出演するため帰国した“麻生レミ”のバックバンドのピンチ・ヒッターとして、“山内テツ”とのちに2代目ドラマーとなる“原田祐臣とセッション参加、「ジャニスの祈り」「ミー・アンド・ボビー・マギー」など”ジャニス・ジョブリン”のナンバーを演奏し、夏以降は徐々にセッションの仕事も増えていくのである。

 

単独ライブでもジュリー派とショーケン派のファン同士の熾烈な争いが激しくなるにつれ観客動員数が激減、GSアイドルスターのツインボーカルでの人気獲得を目論んだプロダクションの皮算用が結果として仇となっていった。

8月には1stアルバム「PYG!」が発売されるが、半分は沢田のソロ(萩原はたったの2曲)、しかもGS時代を彷彿させる“恋や愛”といった歌が中心、ポップなサウンド志向はプロダクションが当初思い描いた”ジュリー・スーパー・セッション・グループ”への路線変更が伺えるようにも思える。10分近い演奏バトルを繰り広げる「やすらぎを求めて」は唯一ロックスプリッツを感じるアルバム・テイクだ。

 

堯之と大野克夫は7月、“グランド・ファンク・レイルロード”のオープニング・アクトに出演するため帰国した“麻生レミ”のバックバンドのピンチ・ヒッターとして、“山内テツ”とのちに2代目ドラマーとなる“原田祐臣”とセッション参加、「ジャニスの祈り」「ミー・アンド・ボビー・マギー」など”ジャニス・ジョブリン”のナンバーを演奏している。