人にはそれぞれ、得意な分野と苦手な分野がある。

自分に当てはめると、小説の際の会話描写は苦手な分野だ。

その中で、自分に課しているルールが幾つかある。

たとえば、


「俺は東京の池袋生まれだ」

「池袋だって?」


のようなオウム返しは使わないといった類も一例。


もうひとつ、単純に「言った」との表現jは避けるというルールも設けているのだが、まさに正反対を行く作家もいる。


皮肉なことに、私がもっとも敬愛している海老沢泰久氏だ。

丸谷才一も絶賛した文体の持ち主ながら、会話文は、翻訳調の単調なもの。

最初は面白いと思ったのだが、晩年の作品には「いった」で終わる文体があまりにも多用されるようになって、辟易させられる。


「ごめんよ、かあさん。うるさかったかい?」

と彼はいった。

「いい天気になりそうだね」

と母親はいった。

「うん」

と彼はいった。「かあさんも紅茶を飲むかい?」

「わたしはお茶をいれて飲むよ」

と母親はいった。

町井利雄はティー・ポットから二杯目の紅茶をいれた。

「ゆうべはよく眠れたのかい」

番茶をいれながら母親はいった。

「うん。眠れたよ」

と彼はいった。

「とうさんは、ゴルフのときはいつんも家を出る二時間も三時間も前に起きてしまってわたしを困らせたもんだけどね」

母親はいった。

 (「オーケイ。」文芸春秋)


アマチュアゴルフを題材とした佳作なのだが、作品の冒頭に来る上記の会話はどうだろうか。

母親と息子の会話など、このような他愛のない会話だと指摘しているのかも知れないが、どうしてここまで「いった」を多用するのか理解できない。

ここまで多用していると、拘りを感じさせる反面、違和感は拭えない。

後半、物語がクライマックスに向かっていくと、「いった」との表現は減る。

もしかすると、冒頭で読者をいらいらさせておいて、後半のクライマックスを盛り上げるという手法かも知れない。

だとすると、あまりにも高等手段過ぎる。


やはり、私は単純な「言った」との表現は避けておこう。




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