我慢することが当たり前だった 【今のわたしがあるまでのお話】 | 【いつも笑顔で-エンジュ】"脱エゴ!塾"エゴを捨れば幸せは近づいてくる"-神々と共に生きていくと言うこと-

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人の喜びを自分の喜びに変換できるのが天界生まれの魂
を持ったあなたを
真のライトワーカーとして
神々と生きる術を身につけるために導きます

 

わたしはこんな人だってわたしをわかりやすく整理中

のエンジュですニコニコ

 

前回中学に上がるまでを書きましたが

まだまだ序盤ですウシシ

ほんの触りみたいなもの

わたしは早く大人になっていい子でいなければいけない

 

でも、もちろん今は全てを受け入れ赦すことが出来ています。

妹たちと話す時はもう話のネタの一つになっています。

もちろん お笑いネタ爆  笑

 

赦すことが出来ているから こうして笑って書くことが出来る。

自分と言う存在を受け入れ使命を受け入れ生きることが出来ているんです。

 

今ある自分はこの辛かった経験があったからこその事なんです。

ここでの学びがなければ 今の私ではなかったと思います。

 

それは皆さんも同じこと

辛い経験を怒りや恨み 悲しみだけで終わらせていてはいけないんです。

そこから学ぶことに意味があります。

今世での使命に必要な学びを得る

ために用意されているもの

 

だから、きっと乗り越えて笑顔に変えることができるんです。

 

 

 

それでは前回のつづき

 

中学に入る頃

徐々に父が二日酔いで仕事を休む日が多くなってきました。

それでも、お酒が抜けるとしばらくはまじめに仕事に行くこれの繰り返しが続きました。

それと同時に母の飲酒の日が増えていく・・・・

 

正直生活は苦しかったです。

欲しいものがあっても我慢することが当たり前

欲しいなんて言えるはずもなく 

初めからもう無理だと子供ながらに思っていました。

 

この思い込みは結構最近までわたしの中にありました。

 

ただ、今と違うのはそういう家庭が多かったことが救いだったとも言えます。

あんまり貧乏という事が恥ずかしくなかったかな?

 

家の中の10円玉かき集めてお酒を買いに行くのは恥ずかしかったですけどね。

当時はアルコール依存症と言う言葉なんて誰も知らない。

もちろん 私たちも知らないし、飲んだくれの怠け者だとみんな思っていました。

役所の人間さえも知らない。

恐ろしいことに内科の先生も知らない時代だったんです。

 

もし、内科の先生が知ってくれていたら 父は死なずに死んだかもしれないとさえ思います。

 

何度も肝硬変を繰り返して それでも、精神疾患だとは知らないから

内科の治療しか受けない。

腹水が溜まって辛い時だけお酒は辞めるけど、また飲んで腹水が溜まって・・・・

もしも、今のようにアルコール依存症が知れ渡っていて、内科と連携が取れていて

もっと知識があったなら抗がん剤を使う事が出来たのかなと 

 

アルコール依存症についてもまた 別でお話したいと思います。

 

そんなこんなで仕事もせずに借金だけが増えていく我が家・・・

ライフラインが止まるなんてしょっちゅうありましたよウシシ

なかなかサバイバルな生活をしておりました。

 

借金を返すために母が仕事に出れば、焼きもちを焼いて

職場に電話して辞めざる得なくなるを繰り返して

母が仕事に出ることも出来なかった。

 

早く仕事をしたかった。

早く家を出たかった。

 

私の結婚は家を出るための口実だったのかもしれない・・・・

 

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【終わりのない物語】

その時は本当にそう思っていました