10月12日(日)に清洲城 で「清洲城信長まつり」がありました。
この日のメインステージのMCをされていた、元・東海ラジオリポートドライバー
市川恵利 さんに3年ぶりにお会いしたお話の続きです。
ここまで話を飛ばしてきましたが、とりあえずドラえもん ショーと、ゲストの山本高広 さん
モノマネライブが終わって「武将隊」の皆さんのオンステージへと入っていきますので、
ここからはちょっと丁寧にお話します。
山本さんのライブが終わったあとは、「岐阜城盛り上げ隊 」の演武となります。
岐阜城盛り上げ隊については、以前にもお話したことがあるのですが(こちら )、
もう一度紹介しますと、岐阜城 を活動の拠点とし岐阜城・岐阜公園でのアテンドや
岐阜市の観光案内などを行っている市民活動団体です。
現在は11名在籍し、日祝日に活動を行っているそうです。
この「信長まつり」には、援軍として出陣されています。
こちらの方がリーダーで「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三さん(1494?-1556)。
父親との2代で美濃を手中に収めたと言う説が有力視されていますが、僧侶や油売り
から美濃国守護の土岐氏を追放し一国を手中にいれた人物。
道三の後を継ぎ美濃国を治めた斎藤義龍さん(さいとうよしたつ、1527-1561)。
「はて、自分は本当に父上の子か?」と道三さんをずっと疑っている設定になっていまし
たが、この方が道三さんの側室の子で道三の妻になった時点で土岐氏との間に身ごもっ
ていたと言う説があったためです(現在ほぼは否定されていますが・・・)。
1556年に父を討ったのですが、父との対立の中で弟に家督を譲られる危機感と、土岐氏
を支持する勢力に押されたと言うのが真相のようです。
道三さんの弟の長井道利(ながいみちとし、?-1571)さん。
重臣ではありますが、斎藤家の中濃・加茂地域の押さえとして動いていたようです。
義龍さんと共に道三さんを討つことになります。
氏家直元さん(うじいえなおもと、1512?-1571)。
土岐家・斎藤家・織田家と主君を変えていますが、実質的に西濃地方を拠点に美濃の
3分の1を支配する豪族でもありました。
そして、明智光秀さん。
もともとは土岐家に仕え、つづいて斎藤家に仕えますが、父子争いの中で道三さん方
に付いたために戦ののち流浪の身となります。
その中で朝倉義景や足利義昭に仕えたのち織田信長の重臣となっていきました。
さて、寸劇は道三さんの娘・濃姫(帰蝶)と織田信長との婚姻をめぐる父子の葛藤を描く
場面。1548年、尾張の織田信秀(おだのぶひで・信長の父)から縁談を持ちかけられた時の
お話。
道三さんと織田信秀との間ではたびたび衝突が起きていましたので、突然の政略結婚の
申し入れに斎藤家は動揺するんですね。
政略結婚であることはわかっていたとしても、やっぱり当時の信長の人となりがわからな
かったのですね。直元さんは「主君の命ならば反対しない」でしたが、
父に強い疑念を持つ義龍さんは「かわいい妹を敵方にさし出すのは忍びない」や「今川家
と同盟を結んで尾張を手に入れた方が得策だ」と主張し、輿入れの最後の最後まで反対
していたのです。
たび重なる戦で美濃の国は疲弊している。まずは織田家と同盟を結んで国の立て直しを
するのが先決・・・と道三さんは諭します。
腹に収まらない部分はあれど、父の思いに耳を傾ける義龍さんでありましたとさ・・・。
寸劇が終わると、道三さんのオンステージとなります。
「斎藤道三のテーマ」を道三さんが歌うわけですが、
どうした、緊張感ピリピリの家臣団たちよ。
道三さまを囲んでポンポンや応援うちわを持ったり、光秀さまはローラースケートで
ステージを所狭しと回ったりと、寸劇とは全く違った雰囲気に。
これには観客の皆さんも驚かれた様子で、盛り上げ隊のステージは幕を下ろします。
続きは次回。
※市川さんおよび「岐阜城盛り上げ隊」の皆さんの画像は、それぞれより許諾を
得て掲載しています。
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