斉彬に消された男―調所笑左衛門広郷

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地中海に面したフランスの都市トゥーロン。
ここに、興味深い絵が残されています。
水彩で描かれた南国の島・・・そこには琉球王国の大臣が・・・。
これらの絵が描かれたのは、1846年。
フランス海軍中尉によるものです。

この年、フランスは琉球に3隻の艦隊を派遣していました。
目的は、開国通商・・・。
アヘン戦争をきっかけに激化する東アジアの勢力争い・・・
その矛先が、終に日本に向かったのです。
この問題に真っ向から当たったのが、当時琉球を支配していた薩摩藩の家老・調所広郷でした。
圧倒的な武力で開国を迫るフランスの脅威。
頑なに鎖国を掲げる幕府・・・。
そんな中、調所は一世一代の賭けに出るのでした。
調所の命をかけた秘策とは・・・??

1776年鹿児島城下で下級武士の次男として誕生。
13歳で調所家の養子となりました。
調所家は祖父の代から茶道坊主を務めており、広郷も剃髪し、その道を選びました。
23歳で江戸に出府・・・奥茶道に・・・。
藩主を凌ぐ権力を持つ重豪の目に留まったとこは、広郷にとって大きな転機となりました。
1828年、武士に戻り、藩全体の財政改革を任されます。

その頃、薩摩藩は破産の危機に瀕していました。
幕府から命じられる治水工事などの莫大な負担。
島津家の姫君を将軍家に嫁がせる婚礼費用。
借金は膨らみ、500万両・・・今のお金にして2500億円を超える膨大なものとなっていました。

調所が財政改革の柱の一つにしたのが奄美大島の黒砂糖でした。
それまで島民に許されていた砂糖の売買を禁じ、生産量すべてを薩摩藩に納入させ、大坂商人を使って売りさばきます。
黒砂糖の利権を与える一方、大坂商人たちに債務返済に大幅な譲歩を迫ります。
元金千両に付き年4両返済、250年割賦という強引な条件を飲ませたのです。
そしてもう一つの切り札が・・・
北海道近海の昆布を富山を介して入手し、琉球を通じて清国に輸出していました。
この貿易を発展させようとしたのです。
薩摩藩は漢方薬の原料である薬種を輸入販売していました。
富山の売薬商から入手した昆布を琉球の交易船に積み、清国で販売し、薬種を仕入れ、日本の市場で売りさばいたのです。
当時、貴重な薬種の殆どは幕府でしたが、薩摩藩は琉球を通じて一部の薬種の輸入販売が許可されていました。
調所はこれに目をつけ、規制を越えた量、薬種を売買し、膨大な利益を生んだのです。

誰もがなしえなかった財政再建を実現し、50万両もの備蓄金を蓄えるに至った調所。
そんな調所の前に思いもよらないことが・・・。
1844年3月11日、一隻の軍艦が琉球に・・・フランス船アルクメール号です。
琉球王府に対して、開国通商を要求しました。

アヘン戦争で清国に圧勝したイギリスは、香港を割譲させ、東アジア貿易の拠点を手に入れていました。
中国市場で後れを取ったフランスは、琉球に狙いを定めたのです。
この要求は、琉球王府を動揺させます。
当時の琉球王府は薩摩の実効支配だけでなく、名目上は清国の柵封を受けた属国でした。
独自の通商など許される立場ではなかったのです。

琉球王府は、フランスの要求を必死に拒絶!!
我国は、金銀銅などの資源が乏しく、貿易には耐えられない・・・と。
しかし、船長はこれに応じず、再交渉の為大艦隊が来ると通告し立ち去りました。
薩摩へ急報・・・そのことは、幕府に伝えられました。
6月・・・調所はフランス船への対処を幕府と協議。
鎖国を掲げる幕府としては、フランスの要求を放置するわけにはいかない・・・
対応に当たったのは阿部正弘。
調所に、琉球への警備兵派遣を命じます。
調所も従い、100人ほどの兵を渡海させました。
一旦は鎖国に従った調所・・・しかし、この後、調所は薩摩を意外な方向へ導いていくのです。

1846年5月、3隻のフランス艦隊が琉球に来航。
フランス海軍提督ジャン・バティスト・ヤシーユ・・・自ら琉球に出向き、開国を迫ります。
ヤシーユは今後国も極秘にある計画を進めていました。
「琉球諸島は、日本とヨーロッパの中継地点になり得る
 那覇の仲買人を使って、我々が必要な商品を日本から輸入し、引き換えに日本の裕福な貴族が欲している品を輸出する」

セシーユの目的は、最終的に日本の開国通商でした。
琉球が拒否するので、一向に進展せず・・・。

セシーユ同様、通商への道を模索し始めていたのが、調所広郷でした。
背景には、財政再建の前途に兆し始めた暗い影が・・・
国内各地で砂糖生産が盛んになったことで、黒糖価格が下落。
もう一つの柱・・・唐物貿易も、密貿易の疑いを強める幕閣によって免許停止に・・・。
そんなタイミングで直面したフランスの通称要求・・・
拒絶策・・・和親通商策・・・どうする??

1846年5月25日江戸城・・・
調所は、老中・阿部正弘と対峙しています。
調所の選択は・・・

「琉球は、外藩である
 琉球に限定して、交易を許していただきたい。」by調所

調所が選んだのは、和親通商策でした。

「要求を拒絶すれば、フランスは清国と交渉して、勝手に交易を始める
 幕府としても、捨て置けず戦になる」と・・・。

調所の巧みな主張を、阿部は受け入れるほかありませんでした。
幕府は琉球を「異国」として薩摩に対策を一任。

まさに、調所の目論見通りの展開でした。
許しが出た4日後・・・6月12日、密命を言い含め、使者を国元に送ります。
その内容は・・・
琉球北部の運天港に商館を建て、薩摩が1,2万両の資金を準備し、日本の反物とフランス製品の交易をおこなうというものでした。
上手くいけば、御禁制の5種の唐物を紛れ込ませる・・・。
調所は、閉ざされられた唐物貿易をフランスとの貿易で打開しようと考えていたのです。
ところが、これに難色を示したのが、琉球でした。
日本の反物や金銀を貿易すれば、琉球には物産がないとしてフランスの要求を断ったことと食い違う・・・と主張したのです。
砂糖などは貢納として薩摩藩に吸収されていました。
貿易そのものを維持するだけの商品がない・・・それは、経済的な植民地になる可能性があったのです。
原料を収奪され、インドのように市場として編成をされる・・・。
貿易は無理だったのです。
さらに、フランスとの貿易が露見すれば、清国との貿易にも影響が出ると調所に脅しをかけます。
完全に調所の案は、暗礁に乗り上げてしまいました。
そして・・・調所の足元を揺るがしたのは・・・

1847年5月、阿部は島津斉彬とあっていました。
40を目前にした斉彬が、藩主の座を手に入れるために、藩の内情を幕府に漏らした可能性が出てきました。
調所が考えていた10万両規模の琉球を舞台にした中国との密貿易。
この実態を幕府に知られては困ります。
そして、琉球に派兵した軍隊の数を虚偽申告していました。

阿部との会見の直後、斉彬が薩摩に書簡を送っています。

”調所一派のありとあらゆる行動・・・とりわけ琉球の事情を 逐一探り出すように”
そして、事態は思わぬ結末に・・・
1848年12月19日、参勤交代で江戸に赴いた調所が藩邸で死去しました。
享年73歳でした。
吐血が見られたことから、死因は服毒自殺だと推定されています。
調所の死の背後に何があったのか・・・??
しかし、調所の突然の死によって、薩摩の秘密は闇へと葬られたのです。

調所の戦略構想は・・・
①財政立て直し
②農政改革 貿易で増収
③軍制改革
でした。

琉球は軍事力はないが外交力がありました。
琉球が清国を使って上手く立ち回ったのです。
幕府としても、大々的にフランスと開国通商すれば、他の国も・・・開国政策全面展開せざるを得なかったのでしょう。
ヨーロッパと直接貿易できる藩ができたら・・・
ナポレオン戦争のあとに開発された最新型の銃が薩摩に渡ることになります。
そこまで見据えて・・・調所は貿易を考えていたのかもしれません。

薩摩藩別邸・仙厳園・・・今も、島津斉彬が作らせた工場や反射炉跡が残っています。
藩主の座に就いた斉彬は、薩摩の近代化を強力に進めます。
その後、斉彬の薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通らが明治維新を成し遂げる中、調所は不当に貶められてきました。
調所家は家格を下げられ、家禄や屋敷も召し上げられました。
鹿児島に有志によって調所広郷の像が建立されたのは、僅か20年前のことです。

島津家の墓所・福昌寺跡・・・調所広郷は現在歴代藩主と共にここに祀られています。
遺骨は一時、東京に移されていましたが、平成13年、子孫の尽力によって、ここに分骨埋葬されるようになりました。

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