薩長史観の正体

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1866年1月・・・風雲急を告げる幕末の京都で・・・時代を大きく動かす密約が結ばれました。
薩長同盟です。
交渉に当たったのは、薩摩藩が小松帯刀と西郷隆盛、長州藩が木戸孝允、そして・・・交渉成立に深くかかわったとされているのが坂本龍馬です。
薩長同盟を機に、薩摩と長州を中心に討幕運動が加速!!突き進んでいくこととなります。
元々は犬猿の仲だった薩摩と長州がどうして・・・?

1853年浦賀にぺりーが来航し、開国を要求します。
これをきっかけに、外国勢力を打ち払う攘夷の機運が高まります。
外様大名の雄・薩摩藩は、朝廷と幕府と諸藩とが一体となって富国強兵を行い、国力が備わったところで攘夷を行うのがいいと主張。
これに対し、同じく外様で力を持っていた長州藩は、即時の譲位を主張!!
一部の公家を巻き込みながら、過激さを増し、幕府を悩ませていました。

そんな中、1863年8月18日・・・
会津藩、薩摩藩を中心とした幕府側勢力が、長州藩と急進派の公家を京都から追放します。
ところが・・・長州藩は、翌年の1864年、京都での復権を図り、3人の家老が軍勢を率いて上洛・・・(禁門の変・蛤御門の変)。
蛤御門付近で会津藩、桑名藩と激突!!
長州藩は、一進一退を続けるも、京都にいた西郷隆盛の薩摩軍の部隊が幕府側につくと、形勢は不利に・・・!!
長州藩は、京の町に火を放ち、逃げていきました。
その時、御所を背にした幕府軍に対して発砲したとして長州軍は朝敵に・・・!!
そんな長州藩に対し、薩摩藩が望んだのは厳しい処分・・・長州征討でした。
禁門の変の時に参戦していた西郷は、その時の強硬派の中心的人物で、盟友・大久保利通に手紙を送っています。
「長州藩には、兵力をもって迫り、東国当たりへ国替えを命じるべきである」と。
厳しい処分を考えていたようです。
朝敵となってしまった長州藩は、薩摩や会津に対して敵愾心を燃やし、薩摩を薩賊、会津を会奸と呼び、憎しみを忘れないようにとその4文字を下駄に書いたと言われています。

禁門の変から5日・・・7月24日、幕府は、西国諸藩に徴収を攻撃するように命じました。
第1次長州征討です。
ところが、あれだけ厳しい処分を望んでいた薩摩藩が、「長州には寛大な処分を望む」と、その態度を軟化させます。
どうして方針が変わったのか・・・??
それは、当時の薩摩藩の権力者・島津久光の意向によるものでした。
久光は、京都でで行われた参与会議に参加し、新しい国づくりに参加していました。
しかし、薩摩藩の力が強くなることを恐れた徳川慶喜が、久光と対立。
慶喜の暴言によって、参与会議はなんの成果もないまま瓦解してしまいました。
それ以後、幕府の政治は、一会桑政権(一橋徳川家・慶喜、会津藩・松平容保、桑名藩・松平定敬)となります。
国元に戻った久光は、薩摩藩のみの富国強兵に舵を切ります。
そうとなれな、藩の支出が多くなる長州征討などもってのほか・・・戦を避けたいという久光の意向が、薩摩の方針転換の大きな要因でした。
さらに、久光が慶喜と対立したことで、薩摩藩が幕府から危険視されたともいわれています。

もし・・・長州藩が滅ぼされてしまったら・・・次の標的は薩摩に向かうのでは・・・??という意見が内部から出てきました。
あまり長州藩を追いつめないように・・・。
しかし、禁門の変で直接対峙した西郷は、厳しい処分にこだわっていました。
これを西郷の上司である薩摩藩家老・小松帯刀が説得。
西郷はようやく態度を改めて、久光の意向に従い、その手腕を発揮していきます。

1864年10月・・・大阪城で軍議が開かれた際には、薩摩藩の代表として参謀役として任じられた西郷は、長州征討軍の総督・尾張藩主徳川慶勝に進言します。

「いま、長州藩の中は、内部分裂を起こしています。
 これを利用し、長州人をもって長州人を征するのが良いかと・・・」

当時、長州藩は、穏健派と強硬派に分かれていました。
そこで西郷は、穏健派を支持し、実権を握らせることができれば戦を行うことをやめることができると考えたのです。
しかし、征討軍はすでに15万で長州藩の国境に・・・!!

「このままでは長州藩が潰れる・・・
 そうなれば、次は薩摩藩が危ない・・・。
 何としても、総攻撃を回避せねば・・・!!」

西郷は急いで、岩国藩主・吉川経幹に長州藩の穏健派に恭順の意を見せるようにと要請します。
交渉が成立するように、禁門の変で捕らえていた捕虜10人を長州藩に返しました。
その後、自ら長州藩に乗り込んで、薩摩藩に敵愾心を抱く強硬派とも交渉を行います。
乗り込んで・・・殺される危険性は大でした。
それでも西郷は、承知の上で行ったのです。
西郷ならではの問題解決方法でした。
こうした西郷の本葬によって、長州藩が禁門の変に加わった三人の家老の首を差し出すなどの幕府に恭順の意を示したことで、総攻撃は中止!!
西郷は、間一髪のところで薩摩藩を戦に巻き込まずに事態を収束させたのでした。

1865年5月、幕府は再び抵抗の姿勢を見せた長州藩に圧力をかけるために、第14代将軍徳川家茂自ら軍勢を率いて江戸を出発!!
これを知った西郷は怒りをあらわにします。
そして、家老小松帯刀にぼやきました。

「将軍の江戸出発は、自ら災いを迎えるようなもので、幕府の威厳を示すどころではありません。
 これによって、天下は動乱と徳川氏の衰退はまさに、この時よりはじまるでしょう。」

薩摩藩は、この時、西国雄藩連合を作って幕府にせまり、二度目の長州征討を阻止しようと考えていました。
ただし、これを実現させるためには、当事者である長州藩の協力が必要で・・・
薩摩と長州の和解が急務でした。
そして、この和解実現の立役者となったのが、土佐脱藩浪士・坂本龍馬でした。
この時、龍馬は薩摩藩の庇護のもとにありました。
それは、龍馬が勝海舟の門下生として参加していた江戸海軍塾が1865年に閉鎖され、行き場を失くした龍馬が、交流のあった薩摩藩・小松帯刀に相談し、預けたのです。
小松は、近代的な海軍教育を受けていた龍馬は使える!!として、庇護下に置いていたのです。
そして、龍馬が長州藩士たちとも交流があったことで、薩長和解の道を探らせたのです。

早速、知人を通じて下関に入った龍馬は、長州藩の中心的人物・木戸孝允との会談にこぎつけます。
しかし・・・相手は、薩摩への深い恨みを抱えていました。
どのようにして説得する??
鹿児島にいる西郷が、上洛する際に、下関によるらしい・・・
そして、木戸との面会を希望しているという噂が・・・。
そこで龍馬は、西郷を木戸との会談の場に連れてくることができれば、薩長の和解が進む・・・
そう考えた龍馬は、同じく土佐脱藩浪士・中岡慎太郎に、西郷を下関に連れてくるように頼みました。
龍馬は木戸と共に、西郷の到着を待ちます。
しかし・・・戻ってきたのは中岡だけでした。
なんと、西郷は、下関によることなく、京都に向かってしまったのです。

どうして西郷はこの時現れなかったのでしょうか?

この時点で、西郷は木戸と会う意志がありませんでした。
京都がもめている今、一刻も早く京都に戻らなければ・・・!!と、西郷は思っていたのです。
そして、薩摩藩の最高実力者・島津久光に答えもしていない中、木戸とあったとしたら??
どんな激しい怒りを買うかもしれません。
あやふやな情報で、糠喜びをさせてしまったとして、龍馬と中岡は木戸にひたすら謝ります。
しかし、木戸の怒りは収まらず・・・その要求は・・・??

「薩摩藩が信用できると言うならば、長州藩のために、名義を貸してくれますか?」by木戸孝允

この頃、長州藩は、武器の輸入を幕府から禁じられていたので、外国から新しい武器を手に入れることが出来ずにいました。
幕府と対峙する為に、軍備強化を図りたい木戸は、薩摩藩から名義を借りることで武器を調達しようと考えたのです。
龍馬はすぐにこれを薩摩側に報告!!
なんとか長州藩と和解したい小松と西郷は、名義を使うことを許可します。
こうして長州藩は、4000丁の最新式の銃と、蒸気船を手に入れることに成功したのです。

9月・・・西郷は、再び龍馬を長州に向かわせています。
今度は、二度目の長州征討を阻止しようと奔走していることをあえて使えることで、お互いの信頼を構築しようとしたのです。
この時、大きな役割を果たしたのは、西郷が龍馬に持たせた大久保利通の書簡の写しでした。
そこには・・・

「義のない勅命は勅命にあらず。
 いかに朝廷の命令であろうとも、天下万民が認めなければ、誰も支持することはない。」

長州征討に断固反対する言葉でした。
これが、長州藩に多大なインパクトを与えました。
そして、薩摩藩の信頼が回復・・・薩長同盟へ・・・??

徳川慶喜が権勢をふるう幕府と対立しつつあった薩摩藩は、長州藩が潰れれば、次は薩摩藩が・・・と、警戒!!
長州征討を何が何でも阻止する必要がありました。
一方、長州藩は、軍備を増強し、二度目の長州征討に備えなければなりませんでした。
「出来れば、長州単独で戦うのは避けたい・・・」と、他藩と協力することを模索!!
そんな中、12月・・・木戸孝允の元を一人の男が訪れます。
後に総理大臣となる黒田清隆・・・この時は、薩摩藩の下級藩士でした。
黒田は木戸に対してこう言います。

「京都にいる西郷が会いたがっているので、是非あってほしい・・・。」と。

しかし、これは黒田の全くの作り話でした。
黒田の中には、いがみ合っていたのでは、根本的に解決しない・・・という思いがあったのです。
黒田清隆こそ、薩長の交渉のおぜん立てをした最大の功労者といっても過言ではないのです。
一度、薩摩藩に騙された木戸は・・・懐疑的・・・。
そこで黒田は・・・

「すでに西郷の心は、長州とひとつになっています。」

俄に信じがたい・・・でも、長州としても味方が欲しい・・・。
そこで、木戸は、黒田と共に京都に向かうことに・・・。
すべて、黒田の独断であったために、何も知らなかった西郷ら薩摩藩幹部は戸惑います。
しかし、せっかくの機会・・・と、そのまま京都で会談することに。

会談が行われた場所は諸説あって・・・
その一つが、現在の同志社大学の敷地内にあった薩摩藩邸。
そして、近年有力視されているのが・・・森之木町にある御花畑御屋敷・・・
ここは、小松帯刀が公家の近衛家から借り受けていた場所で・・・1800坪の邸宅でした。
つまり・・・小松帯刀の私邸というよりは、薩摩藩の迎賓館のような場所だったのでは?と言われています。
小松は、人目につきやすい薩摩藩邸を避け、迎賓館的な御花畑屋敷を会談の場にしたと考えられます。
そして、1866年1月18日・・・薩摩と長州の会談が始まりました。

ところが・・・14代将軍家茂が第二次長州征討に向け、大坂城に入ります。
そして、幕府は、長州藩に新たな処罰を出そうとしていました。
そんな中、1866年1月18日、薩長同盟の交渉が開始されます。
薩摩藩側は、家老・小松帯刀を始め西郷隆盛、大久保利通、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。
対して長州藩は、木戸孝允ひとり・・・。
口火を切ったのは、西郷でした。

「幕府が近く下す長州への処分案を、今は忍んで受け入れてたもんせ。」by西郷

西郷の言う長州処分案とは、長州藩主の蟄居、10万石削減・・・これはまだ幕府で協議中の極秘事項でしたが、西郷は独自のルートで情報を入手していました。
薩摩は長州と共に戦ってくれると期待していた木戸は、幕府側ともとれる西郷の発言に驚きます。

「三家老の首を差し出したことで、もはや、長州藩の処分は済んでいる。
 更なる処分など、納得いきません。」by木戸

双方、黙ってしまい、会談早々に交渉は決裂・・・。
しかし、どうして西郷は、幕府が下す処分の受け入れを勧めたのでしょうか?
薩摩側は長州藩士が、禁門の変で御所の前で発砲した以上、何らかの処分が必要だと考えていました。
この時、西郷は・・・一旦、幕府が下した処分命令を受けさせておいて、長州側に村にならないよう収束させるつもりだったようです。
長州側が、幕府の処分案を拒否すれば戦争になってしまう・・・それを避けたかったのです。

薩長の会談が物別れに終わってしまった2日後・・・薩摩藩の有志によって、長州に戻ることとなった木戸の送別会が行われました。
そこに・・・坂本龍馬がやってきて・・・話し合いの結果を知らない龍馬は木戸に・・・。
そして、西郷と小松にもう一度話し合うように説得します。
これによって、もう一度話し合いが持たれることとなりました。
決裂した交渉・・・知恵を絞ったのは西郷でした。
木戸の希望に沿う条件を提示しました。
その内容が、唯一記録として木戸の書簡に残っています。

・幕府と長州の戦いが始まれば、薩摩藩は二千ほどの兵を国元から上洛させ、幕府に圧力をかける。
・戦が発生して、長州側が勝利を収めそうな勢いになった時は、薩摩藩は長州藩の復権を朝廷に働きかける

その中身は、薩摩藩がいかにして長州藩の復権に尽力するかというものばかり・・・
中でも注目すべきは・・・

・一橋、会津、桑名の三者が今までのように朝廷を擁し、薩摩藩の終戦尽力の道を遮った際には、決戦も已む終えない。

これらの内容に、木戸も納得し、1月21日薩長同盟成立!!

この決戦は、対幕府ではない??
薩長同盟は本当に軍事同盟??
西郷が念頭に置いていたのは、一橋、会津、桑名との戦いで、武力討幕を全く考えていませんでした。
実際に戦闘が想定されるのは、京都で軍事力を持つ会津のみでした。
つまり、戦いが起きても藩同士の戦い・・・
「決戦」という言葉には、長州と共に幕府と戦うという意味はなかったと思われます。

つまり、薩長同盟は、討幕のための軍事同盟ではなかったのです。
この時点では、薩摩は第二次長州征討が実行される可能性が低いと想定していたので、木戸に伝えた内容は履行されないと見ていました。

薩摩藩にとって記録に残すほどでもなかった会談も、四面楚歌の長州にとっては大切なものでした。
その証拠に、薩摩藩が長州藩に有利な内容を提示してきたこの会談の内容を”皇国之大事件”とし、木戸はその言葉を書簡に何度も書いています。
そして、木戸は龍馬にこの書簡に裏書を書くように強く求めます。
交渉の場には、長州側は木戸だけでした。
なので、交渉内容を証明する人物として・・・龍馬は長州藩からは、薩摩藩士のひとりとして認識されていました。
後に、書簡を受け取った龍馬は、朱色の墨でこう記します。
”表に記されているのは、私は同席したときに、話し合われていた内容に相違ありません
2月5日 坂本龍馬”と。
龍馬に裏書してもらうことで、交渉を確かなものとして長州に持ち帰ったのです。

薩長同盟締結からわずか2日後・・・
1866年1月23日、寺田屋にて・・・
坂本龍馬は会談の成功を祝い、伏見の寺田屋で、長州藩となじみの深い長府藩三吉慎蔵と祝杯を挙げていました。
するとそこへ・・・幕府の役人が・・・!!
龍馬は持っていた銃で応戦しますが、刀で切りつけられ両手を負傷!!
命からがら近くの薩摩藩邸に逃げ込みます。
世にいう寺田屋事件です。
2017年、鳥取藩の記録が発見されました。
そこには・・・
”坂本龍馬というものが泊まっていた寺田屋に、薩摩と長州が密談していたことを記していた手紙があった。
 それによれば、長州が挙兵した際は、薩摩藩が京都の幕府軍を追い払うという密約があるらしい。”
 龍馬が寺田屋に置き忘れた手紙が、幕府の手に渡り、極秘の密談の内容が数日のうちに幕府に漏れていたのです。
一説には、龍馬はわざと手紙を残して幕府にリーク、薩摩の方針を幕府に知らせることで、この同盟が破棄されないよう、薩摩藩の退路を断ったのでは??とも言われています。
果たしてその真相はいかに・・・??

寺田屋事件の後、龍馬が家族に送った手紙には・・・
「寺田屋で襲われたことは、幕府に薩摩藩と長州藩の関係を知らせることができて、かえって幸いだった。」と。
龍馬は、薩摩と長州の温度差・・・この同盟の考え方の違いに気づいていたのでしょうか??

薩摩藩にとっては、記録に残す必要のない、リップサービスだった薩長同盟・・・
幕府の知るところとなった瞬間に、歴史は大きく動くのです。
同盟締結から5か月後・・・
6月第二次長州征討・・・幕府は10万の軍勢で開始します。
単独で幕府軍を迎え討つ長州軍は、3500ほどの兵で善戦。
この時、兵士たちが手にしていたのは、薩摩藩名義で入手した最新式の銃だったのです。
二度目の長州征討はないという思惑が外れた薩摩藩・・・
木戸との約束を守るために征討軍参加を拒否!!
西郷も、早期終戦に向けて尽力します。
長州藩は戦いを優位に進め、征討軍を撃破!!
この後、薩長両藩の討幕への勢いは、大きなうねりとなり、江戸幕府は終焉へと向かうのです。
薩長同盟成立からわずか2年後のことでした。

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