父祖について

安倍氏の始め、我が家の始めは孝元天皇の皇子である大毘古命、その子である建沼河別命であり、皇別氏族である。

そして、私の父祖を辿るならば楠公・楠木正成へと連なり、それは橘氏の後裔であるから、やはり皇別氏族である。

皇統が男系であるやうに、私の家督とは別に己の祖先として、楠公が私達に与へる影響は強い。

最近の話題でいふならば、楠公とは日大アメフト部員であるのか?

ある程度の実力がある事は間違へない訣だが、楠公は日大アメフト部員と同様にチームの指示(君命)を受けて反則タックル(湊川の戦ひ)を敢行したのだらうか?

「合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば、必ずしも御覧ぜらるべからず。正成一人未だ生きて在りと聞こし召され候はば、聖運遂に開かるべしと思し召され候へ。」

「正成一人未だ生きて在り」とは言葉通りに受け取れば、湊川へと赴き討ち死にする事で「聖運遂に閉ざされる」とも取られるかも知れない。
楠公は君側の奸に嫌気が差して渋々と湊川に向かひ、弟・正季と倶に「七生滅敵」を誓ひ自決したのであらうか。

私は子孫として祖を思ふに、いや常識的・論理的に考へても「正成一人」とは単に「道理を辧へた御味方が一人でもゐたならば、天業恢弘は成る」といふ事をいつたに過ぎない。それは詰り、いはゆるイノベーションが起こるといふ事でり、事実確認をしただけの事であると思ふ。

櫻井の訣別の歌詞にある通り、櫻井の駅にて小楠公・楠木正行を帰す折に説いた通り、「我が私の爲ならず」といふ無私、滅私奉公が一貫してゐる。

要するに、我が私の爲、試合出場の爲にといふ日大アメフト部員とは真逆に位置するのが楠公であり、それを楠公精神といふ。

このやうに書くと、日大アメフト部員を卑下する人が多いのだが、私を始め、貴方達は日大アメフト部員を笑へる程の楠公精神を実践してゐるのか。

己自身を棚に上げ、適当な生贄を吊し上げて満足しようとしてゐるだけなのではないのか。

話を楠公、湊川へと戻すが、当時にも当然ながら私を先にした「君側の奸」が多数派であり、それならば楠公は何故、その君側の奸をこそ討たなかつたのだらうかといふ気持ちになる。

それは京都から動かぬ以上、戦局としても無理であり、変節漢である足利高氏を迎へ撃つ必要があつた。

更に、一口に君側の奸、私利私欲の者とはいへても、それは人々の心に広く浸透してをり、特定の要人を幾人か膺懲したところで大勢は動かない。

如何に戦ふべきか。

楠公の戦上手は、赤坂・千早城の戦ひに於いて実質的に全日本の軍勢を相手にし、その包囲に屈する事なく勝利した点よりも、寧ろ、負け戦である筈の湊川の戦ひに於いて、自身がその大義を曲げず自決した事で、その後の國史に於ける第二、第三、無数の「楠公」を輩出し、我が國體を護持し続けた「楠公精神」の発露にこそある。

変節漢による統治と、その権力に追従した多数派により、この後に我が國は乱世へと突入する事になる訣だが、それ以前にも保元の乱、平治の乱により我が國の規範意識は道から外れてきてゐたと思ふのだが、これを「中興」したのが正に「建武の中興」であつたのではないか。これは天皇親政といふ統治体制といふ事ではなく、我が國の國體が楠公の実践を以て明けくなつた事にこそ意味があるのだ。

これは平時に於いては、伏流水のやうに目には見えぬのだが、事ある時はそれが奔流となり、國體の自浄作用を起こす訣だ。國家が一つの生命体として持つ免疫機能とでもいふものであらう。

事実、これは例へば江戸時代に於いては、尊皇精神に裏打ちされた「忠臣蔵」となり、その後の尊皇討幕へと繋がる分水嶺ともなつた。因みに楠木氏の氏神といへば建水分(たけみくまり)神社である。

更に、最近では西洋列強による世界的な規模の侵略といふ穢れを拂ひ去つたのが、大東亜戦争といふ國體明徴であり、それは正に楠公精神の発露であつた。

後世の歴史家は、大東亜聖戦こそが世界的な中興であるとして「昭和の中興」と称へるだらうが、その大義が明けくなる迄、曲学阿世の徒はこれを否定し続けるのだらう。

世の人々は、目先の利益と私心を採つた足利高氏ではなく、悠久の大義となつた楠木正成を目指すべきであるし、せめてその事実を直視せねばならない。



わかつのは あまつひつぎか わたくしか わがみをつくし みくまりとなす
(別つのは 天津日嗣(天業恢弘)か 私か 我が身を盡くし(澪標)水分りと成す )