2017年2月に、宮城県南部から福島県北部にかけて、JRに乗って各駅の近辺の状況を見て回った。そのときの様子を以下、簡単に記しておく。

およそ6年間の時間が過ぎて、津波被害による各駅周辺の復興は、まだまだ遅々たる歩みではあるものの、それぞれのやり方で着実に進められている。

 

仙石線、石巻線を通ってみて実感したのは、景観としては、堤防の高さ、ならびに、その建造の進捗というものが、各地域の比較の尺度とならざるをえなくなっていることであった。宮城県では特に、仙台市から南方、山本町に至る部分については堤防の建造が順調に進んでいるが、北部についてはまだまだこれからである。一方で、そのなかでも女川町のように堤防に依存しない復興計画を提示している地域もある。複雑な地形をもち、歴史や風土、文化も異なる各地域において、単純に同じ尺度で復興状況を把握することは、あまり意味を持たず、むしろ、それぞれの独自性がどこにあるのかを見極めていくことが今後も必要であると痛感した。

 

 

1 宮城県の被災地と防潮堤
 

仙台駅~福田町駅
仙台市は、仙台駅および中心市街地はかなり海岸から離れているため、大きな影響はなかったとはいえ海岸から内陸にかけて広範にわたって平野が広がっていることもあり、津波の被害は、浸水範囲内の人口が約3万人、死者691名・行方不明者180名を数え、宮城県内でも被害の大きな地域の一つである。

仙石線は仙台市を東に進む。仙台駅から陸前原ノ町駅までは地下を走り、その後地上に出て高架となる。
 

梅田川を渡って小鶴新田駅あたりまでは仙台への新規の通勤・通学圏であり、乗客の乗り降りが多い。海岸側は遠方まで浸水した地域が広がっているが、路線上からはかなり離れており、状況を伺うことはできない。
 

福田町駅~陸前浜田駅
福田町駅から七北田川駅を渡って、陸前高砂駅へとさらに東進する。このあたりは古くからの住宅街である。内陸に入っていることもあり、物的被害は比較的軽微である。

ここから線路は北東に進む。中野栄駅からは駅付近が浸水区域となる。もちろん現在の駅は完全に復旧されている。中野栄駅を過ぎると砂押川を渡って多賀城駅だが、こちらも浸水区域に含まれているが、同様に駅は何事もなかったかのようである。多賀城市は遡ると貞観(869年)に津波被害があっただけで明治も昭和も被害がなかったが、今回は、名前の由来がそこにありそうな砂押川から水が登ってきて市の海側では大きな被害(津波4m、死者220名)があった。

ここから線路は北に向かい、浸水していない下馬駅に至る。さらに西塩釜駅に入ると再び津波のよる浸水エリアに入る。海岸に近い本塩釜駅は大半の商店街の1階部分が浸水したところである。東塩釜駅もほぼ同様で、駅近辺に浸水があった。右手の海岸沿いには新しい白い防潮堤が延々と続きはじめる。

ここから線路は再び北上し、海岸から離れたところを通る。そのため、被害の多い場所からは遠ざかる。続く、陸前浜田駅は海岸に近いが、大きな被害はなかった。
 

観光地としての松島
更に北上すると松島海岸駅に至る。松島市は最大5m以上の津波があり、浸水深も2メートル以上となり、その後の沈下も60センチメートルほどあった場所さえある。にもかかわらず人的被害は少なかった。また、景観の美しさも大半は損なわれずに済み、実際、この日も平日であったにもかかわらず多くの外国人観光客で賑わっていた。他方で、海岸沿いには新たに1メートル程度の防潮堤がつくられていた。
続いて、高城町駅、手樽駅もかなり海岸に近い駅であるが、このあたりの被害は比較的軽微であった。さらに本当に海岸線に近い駅、陸前富山駅、陸前大塚駅が続く。同時に、防潮堤も延々と続く。

 

東松島市
ここから先は、震災後に高台に線路が移転しているところを通る。東名駅、野蒜駅、そして成瀬川を渡って、陸前小野駅までがそうである。

 

野蒜駅は海岸から500m以上離れているが、津波の高さは10m、この地区の犠牲者は300人以上にのぼる。当時、走行していた電車は緊急停止し乗客が避難した後、水に飲まれ、車両はねじ曲がって押し流された。駅も新たにつくられた。
 

仙石線移設計画の概要
(http://www.kajima.co.jp/tech/c_great_east_japan_earthquake/deconstruction/deconstruction04/index.htmlより)


このあたりには災害後に建てられた公営住宅が並んでいる。このあたりからは東松島市で、鹿妻も含めて、内路を進み、石巻駅に至る。
 

石巻と石ノ森章太郎
石巻市では過去の津波被害がなかったこともあり、防潮堤は低くつくられており、6-7mの津波が襲った結果、死者・行方不明者数は3,972名にのぼった。

駅から石ノ森漫画館よりも南方にある門脇町、さらに南の南浜町に被害が集中した。石ノ森の生誕地は石巻よりも危殆にある登米市であるが、少年の頃に石巻の中瀬地区にあった映画館に足繁く通った縁から、ここに記念館を建てるとともに、キャラクターを全面的に使用することを認めた。そのため、駅に降りると、アニメキャラクターがあちこちに使用されている。ちらしも英語版、中国語版も用意されており、インバウンド効果も期待されているようであるが、この日は(私も含めて)1人の中年男性の姿はあったものの、特に外国人旅行者は目立たなかった。

 

石巻線
ここから先は石巻線に乗換、旧北上川を越える。陸前稲井駅、渡波駅、万石浦駅、沢田駅、浦宿駅、女川駅と続く。石巻線は「3.11」後、全線不通となった。このうち、小牛田駅から前谷地駅については、2011年4月に運転再開、前谷地駅から石巻駅については、2011年5月に運転再開。2012年3月には石巻駅から渡波駅まで運転再開、2013年3月、渡波駅から浦宿駅間が運転再開している。

 

女川
女川駅は「3.11」で駅舎が流され、4年経って2015年3月に再開した。温泉を併設しており、奇妙な空間となっている。裏手は小高くなっているが、途中まで、津波の傷跡があったことが伺える。そして、そこから海岸まではゆるやかな下りで、津波で大半が流されたあと、再開発が行われている。駅からすぐのところは仮設ではなく、しっかりとしたショッピングモールのようになっており、住民のためのふれあいホールのような施設もある。しかも建物の外側には軽やかなジャズがBGMで流れる一方、施設内の食堂等に入ると演歌がこぶしをあげているといったサウンドスケープ的にはあまり配慮がなされていない点が気になった。また、この施設のさらに海岸線に近いところはまだ工事中であり、ダンプなどの大型車が次々と走っており、煙が舞い、決して快適な観光空間ではなかった。しかしこれも復旧時の宿命である。以前はさまざまな建物があり、住居もあったようであるが、このあたり一帯は商用空間として完全に位置づけを変えている。

 

女川は過去に日本を襲った津波の被害はそれほど大きくなかった(例えば明治や昭和の多津波はいずれも死者1名のみ)にもかかわらず(というか、そうした歴史もあったこともあり)、「3.11」では非常に大きな被害を受けた。死者・行方不明者数は873人で人口の8.7%と、自治体のなかでもっとも高い比率となっている。ここは他の自治体とは大きく異なり、防潮堤をつくらないことを決め(ただし、海面から4メートルの防波堤や、商用空間と水産空間とのあいだに、4メートルの高さで国道を通す)、「3.11」で女川に押し寄せた津波の高さ18メートル以上のところを居住空間とする一方で、役場、学校、商用施設などを中間地帯に配置し、さらに海岸に近い低地は水産加工工場や漁業関連施設が置かれる。正直に言えば施設や商業空間の「箱モノ」としての作り方は特に工夫が見られるとは言い難い。だが、駅から海岸に広がる緩やかな下り坂は、空間としては情緒あるものとなっていると言える。少なくとも高い防潮堤によって海へのルートが遮られていないという点については、単なる美的観点のみならず、「まち」としての津波被害に対する強い決意や意志を感じずにはおれない。いくら高い防潮堤をつくったとしても50年に1度くらいは防ぎようがない被害がこれまでの歴史では起こりえたことを受け止めつつも、起こったときは、人命を尊重するものの、商業・工業などの経済関連の施設については半ばあきらめるという態度は、女川が今後歴史を刻む中で次第に大きな価値を生み出してゆくように思われる。

名取から以北
(今回は省略)