この事が、敬虔なクリスチャンには、コースが受け入れられないという背景があります。
しかし、宗教を信じていない私には客観的に入ってくるのですね。
では、例えばどういう点がちがうのでしょうか?
聖書では、アダムとイブの話については、このような解釈がされています。
神がアダムとイブにこう言いました。
「善悪の知の木になる実をたべてはいけません」しかし、ヘビに誘惑されたイブは、リンゴをもぎ取り、アダムに渡してしまいます。
それを食べた彼らは、エデンの園から永遠に追い出されてしまいました。
これが堕落した人間の象徴とされています。
しかし、コースによると、こう告げられています。
「神は誰も追い出してはいない。」
人が堕落したというのは、それを自ら選んだ人の歪んだ知覚であり、幻想に過ぎないと伝えています。
自らの心の中で神ではなく、あなたが、「自分で何かを成し遂げられるのでは?」という僅かな思考が起こり、それを信じてしまい、神から離れてしまったという恐れに繋がってしまったのです。
このようなあり得ない狂った考えが忍び込み、神の子は笑うことを忘れてしまいました。
そして混乱の中、あまりの恐ろしさと、罪深さを信念として取り込んでしまった意識は、自我を作り出して、その自我からこう言われます。「とんでも無いことをしてしまったね。神は罪深いあなたを許さないだろう。私が味方につくから、逃げなさい。そしてあなたの欲望である、あなたの特別な何かを私たちで、協力して成し遂げよう」。
分離した意識の力動(神の力の搾取)により、この世界が投影により作られ、個が作られ、肉体が作られた。
また、この世界では、歪んだ知覚により、その個別性や肉体があたかもリアルであるかのように感じられるので、その幻想は真実であると信じるようになったのである。
そして、ほぼ自我に自己同一化した意識が、この世界で何かを成し遂げようと日々、行動するようになった。
しかしながら、完璧で変化しようのない神に対抗しようとして作り出したものは、不完全なので、変化します。
変化するとは、何かを成し遂げたとしても、いつかは崩れ、死に、無に還る砂の城を追い求めるという事に過ぎないのです。その欠乏感や怒りや焦燥感が満たさせることはありません。
でも自我はこう言います「探せよ、されど見つけることなかれ。」
その思考体系を知っている自我は、意識に気づかせてはならないので、次のような真理に関わる質問をさせません。
「本当に私はそれを望んでいるのか?」、「なぜそれが必要なのか?」、「本当の私は何者なのか?」など。
しかし、自我は自分の存在が無くなることを恐れているので、あなたにこの世界に留まらせる為に、寿命を迎えるまで、この世界が魅力的に映るように、あなたが反応しそうな何かを、あの手この手で、良い事も悪い事も、ストーリーとして差し出すのです。
そう、あなたがゲームに熱中して、やり続けてくれることで時間稼ぎをしたいのです。決して、ゲームだと気づいてはならないのです。
つまり、あなたが真に目覚めることを恐れているのです。目覚めることで自我は消滅します。
普段のあなたは、日々の些細な出来事や人間関係での葛藤は感じていますが、本当の原因である神からの分離とその罪悪感から来ているということを認識することはありません。
無意識下に隠蔽したその想いや感情に向き合うことは、自我によれば、死ぬより怖いことなので、それに触れてはならないと命令されているからです。
しかし、それに向き合うことでしか、根本原因の解決は果たせないのです。
そうでなければ、出来事や相手を変えて、葛藤が続くことは、あり得ません。
話を戻しますと、キリスト教などの「贖罪」(しょくざい)とは、実際に罪を冒してしまったので、人は罪深い存在である。
ゆえに信仰や奉仕などにより、その罪を償うことで救済されるという論理なのです。
コースによれば、これそのものが誤りであるので、訂正されなけばならないとしています。
罪深い信念を持ったままでは、真に癒される事はなく、永遠なる平安と愛そのものである神の国へ還ることは不可能なのです。
コースによる「贖罪」(しょくざい)とは、罪があるという前提ではない。
なぜなら、神からの分離というのは、あくまで考えであり、実際には成し遂げられていない。今も神の子であるあなたは、神の一部であり分離は起こっていない。
「起こっていないことに罪はない。つまり、神の子であるあなたに罪はない」と告げています。
この罪がないという事実によってのみ、真の救済があるのですね。
だから堕落した人間の象徴というものは、自我による幻想てあり、真実ではない。
「贖罪」の意味の訂正が、救世主であるイエスの最も伝えたい事なのではないでしょうか。
神はあなたの事を怒っていない、というより、実際には分離は起こっていないので神はその事を知らないとしています。
起こったと信じているのは、あなた自身の解釈の間違いである。
信じ込んだその間違った信念を取り消す為に、この世界にいると思っているあなたの心の中に聖霊が送り込まれました。
その聖霊の機能である赦しにより、無意識下に隠蔽されている分離と罪悪感を、完璧に取り消すことによって、再びあなたは、元の神の国に戻るというストーリーを旅することが必要なのです。
最後に、神はなぜ善悪の知の木の実を取ってはならないと言ったのでしょうか?
善悪を知る、考える、判断することは、それまでは無かったのです。
善と悪とは、相反する考えであり、神の国には善しか存在していなかった。
これが、コースでいう純粋非二元論です。
神が善悪の判断をしないように、アダムとイブにも、善悪の判断は無かったのではと推測しています。
判断する思考とは、周りや自分を、比較判断して裁く、或いは、恥じるということです。
本当は、神は智識の木の実を食べてはならないといってはいないとされています。
それは、自己創造の能力を横領するこいうことを表す比喩であるということです。
しかし、横領したと思い込んだ心という者にとって、そこに神の国の平安はないでしょう。
ただ平安や歓びを感じていたのに、その前に思考する、判断するという事を体験してしまったので、分離という考えが浮かんだのではないでしょうか。
分離が出来ると思い込んだから、横領も可能だと思えたのです。
この世界も、善悪の判断で成り立つ反面、個人や団体、国レベルでそれぞれ異なった(分離した)善悪の判断をすることによって、今も攻撃と、防御、恐れや悲しみに満ちているように見えます。
永く無意識下に隠蔽され、引き継がれてきた、善悪の知の木は生い茂り、そして更に分離化が進み、強化された罪悪感の信念ゆえの事ではないでしょうか?
それでも、イエスは、この世界の全員が、神の国へ還る事が神の計画であり、あなたの救済、そして世界の救済に繋るので、必ず助けるという約束のもと、共に赦していこうと、コースで訴えかけています。
もちろん神の意志である、自由意思を尊重しているので、強制はしませんし、あなたが心を変えるまで、いつまでも待つと優しく語りかけています。
春の訪れと共に歩んで参りましょう。
有難うございました。