入院中、透析用のカテーテルがぬけて出血性ショック、心肺停止。
蘇生するも、意識が戻ることなく母は亡くなった。
そして、母が亡くなってもう丸6年。この週末に七回忌を迎える。
一方、私は、母が亡くなって半年の間には既に証拠保全を済ませ、
すでに裁判の準備を進めていた。
しかし、当時において、やみくも裁判になってしまうと考え、私はすぐには
裁判を起こさなかった。
そして、3年後、私は裁判することを決断。それは過失を確信したから。
特に死亡との因果関係について崩されない自信があり、私の自信は今も変わらない。
それは医療記録と医療概念は不変だからに他ならない。
私の足りないもの、それは裁判の経験、特に裁判官への説得力。
自分の足で探した弁護士たちに、それを助けてもらう。
自己満足では意味がない、結果を出すためには、裁判官を説得できるかが、重要となる。
その裁判は二年が経過。
相手に自由に主張させ、その結果に応じて自分の弁護士にプレゼンをすることにより
私が勝負する医療概念に裁判を誘導。
そして、昨年末、私は最初のカードを出した。
病院側が要望した人証者を退けて、既にこの病院をやめている、3人の医師と看護師を指名したのである。
私は、当時担当していた医師たちに関して現在の居場所を確認していた。
彼らとの人証で病院の嘘をあぶりだす。
先月行われた裁判で私の弁護士が再度人証者を告知すると、
病院側の弁護士がまた同じ発言をした。
その発言は、私を怒らせる内容。
”本人が希望しなければ人証にだせない”
私はブチきれ、以下のように言い返した。
”人が亡くなっている案件なのに、本人が希望しなければでないとはどういうことだ!!”
でも、病院側の弁護士は、無反応、何も答えず、私は裁判官になだめられた。
その様子から前回のような慌てておらず、既にでるなよ!とネゴした可能性がある。
そういった体質の団体であることを自分はこの6年間肌で感じている。
このように病院が裁判官の印象が悪くなるにも関わらず、人証者をださないのか、
はたまた、指名された人証者をだすのか
次回、来月の裁判までに病院側が調整することとなった。
でも、病院側が拒否しても、自分には考えがあるけどね。
まず、相手の出方をみる。
-----------入院・診療経緯---------------------------------------------------
母は、首の膿を抗生剤にて減らすため、
2週間の予定で入院したのが11月30日。
入院時の説明資料では1週間と記載されているように
念のための入院だった。
その首の化膿は抗生剤では無くならず、手術で除去したが、
その手術を行ったことで 母は口から食べられなくなってしまった。
12月27日、主治医から消化管の出血の疑いがあると説明を
受け、年明けに内視鏡検査を行うと説明を受けていた。
しかし、炎症部位を鑑別する検査は行われなかった。
そして、1月10日、腸が破裂してしまう。
外科医師から胃に穴があいてしまい手術しても、成功率0.01%,それでも手術するかと言われた。
私は、胃に穴が開いたと思わなかった。
その直前、母にどこが痛いか、聞いていたから。
母が痛いと言っていたのは、へそより下だ。私は可能性があると考え、手術することを決断。
手術してみると、胃ではなく腸だったため、手術は成功した。
その後、母は回復傾向であり、一般病棟に移されていた。
1月27日AM2時20分頃、血液透析用のカテーテルが抜けて、多量出血,意識がなくなる。
そして外科部長は、私に重力でカテが抜けたと説明。
その後日の打ち合わせで、病院側は、母自身が抜いたとしか考えられるといってきた。
でも、私は知っていた。
母にカテを抜く力がないことを、そして、そのことを知っている
医師がいることを。
その医師とはリハビリ医師。
その打ち合わせで私は、そのリハビリ医師を私は、引きずりだし
母がカテを抜けないと発言させた。
すると、消化器内科の医師は、皮膚との遊びで抜けたとしか
考えられないといってきた。
その消化器内科の医師は、**という病気知っているのか、そんな大変な病気を一度助けてやったんだから感謝しろと。
いいだした。
一方、病院は、母をどう看護していたか、すら、説明をしなかった。
そして、母は、意識が戻ることなく2月9日に亡くなってしまう。
その後の打ち合わせで、事務部長は私たち家族に
以下のように発言した。
他の医療機関に聞けと。
私は、納得できず、4年近くかけて準備し裁判することにした。
私は、戦略上、メインの訴えに
腸の穿孔や、カテーテル逸脱ではなく、
私が見つけた医師のテクニカルミスを掲げて勝負することにした。