Another day comes 紫・電・一・閃 ~今日と違うはずの明日へ~

こんな俺でも いつかは光を浴びながら
きっと笑える 日が来るさ ・・・来るまで生きるぜ(生への渇望)

不本意な自己犠牲

2014-07-10 22:10:20 | 述べてやるさ!!
「自己犠牲の特異性」・・・自己犠牲というのは善意によって行われる慈善的行為ではない。
               そうせざるを得ない、そうならざるを得ない状況は善意が生じる余地を与えない。
               状況に抑圧されて生じた「犠牲」という解決策は総じて妥協である。
               また、自己犠牲はその過程に偽善が伴うことはあるにせよ、根本的に性質が違い、一括りには出来ない。
               (覚悟があるという)本意かつその対価(自らに有益とは限らない)が得られる事を条件に、
               自身の何かを問題となる事象と対消滅させるという、偽善とは一線を画すものである。(俺式脳内辞典より)



自己犠牲というものは、大小問わず日常にありふれたものである。妥協と同じ要領で発現し、同じように不快感が生じる。
つまり言い換えるならば、我々は息をするように犠牲を強いているのであり、
またそれはその時々の弱者に向けられているワケで。


言い訳をする気はない。現に、ワタクシだって自分の(一時的な)快楽の為に他人を良くも悪くも祭り上げて犠牲を強いている。
しかし、優劣を意識させるようなことは自らの良心が許さず、それによる犠牲の「やむを得なさの演出」もしない。
立場が弱い者が、見せしめとして不本意な犠牲を強いられるようなことは、ありがちではある。
だが、それだけに許容できない。「自分に都合の良い倫理」であるとしても、
痛みのわかる人間だからこそ、意識せねばならないというものである。

が、こちらがそうあろうとも世間は容赦してくれるわけもない。
常に底辺に位置するよう、犠牲を強いてくる。それは人が優劣に拘るからこそであり、のし上がる事を諦めた者などは格好の標的である。
これを避ける為、極めて最低限の「戦意」を保つことが如何に苦痛であるか。
恵まれた者を妬み、同程度の者を疎み、弱きを挫きそうになるのを必死に堪えて生きているのが。
自分への言い訳だって辛い。胸が苦しく、叫びそうになる。
尊くもない、卑小なるこの俺が犠牲になったところで、皆は指を差して笑うのみだ。
そう、その程度の犠牲にしかなれないのだ。


時よ、立ち止まって幾多の可能性を「ふい」にしてくれ。
この目に捉えられる未来、そのすべてを。
哀しみと喪失感で満たされる前に……








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